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2007年9月11日 (火)

誤訳の原因

これまでの経験から、誤訳の原因には「怠慢」「知識不足」「誤解」「思い込み」「見間違い」の5つがあることは分かっていた。

「怠慢」とは、例えば「credit」のような基本的な単語について、その意味を辞書や用語集などで確認することなく、自分が知っている範囲の意味に解釈してしまう場合である。「辞書を引く」「資料で確認する」といった基本的な作業を怠ったゆえの誤訳だ。

「知識不足」では、こんなことがあった。他の人が日本語から英語に翻訳した資料に「問題が多い」というクレームがついたため、私がチェックを依頼された。確かに多くの誤訳があったが、中でも「About 4 minutes」という訳を見たときは驚いた。原文の日本語は「四分位」。広告に関する人口動態学的分析の中に出てきた表現であるが、これは時間を意味する「よんぷんくらい」ではなく、正しくは「しぶんい(=quartile)」である。翻訳した人はこの言葉(概念)を知らなかったに違いない。

「誤解」或いは「思い込み」の例としては、米国人が「日産自動車」を「daily produced car(s)」と訳したことがあった。彼にとって日産はアルファベットの「Nissan」で、漢字の「日産」ではぴんとこなかったのだろう。

原文を見間違うことも誤訳につながる。ある文書中に出てきた「project/projected」を「protect/protected」と勘違いして訳してしまったことがある。多少おかしかったが、それでも日本語として意味が通じたのが災いした。当然、翻訳会社のチェックに引っかかり注意された。遠近両用メガネを作るきっかけになった誤訳である。

実は、誤訳の原因がもうひとつあることに気付いた。「理解不能な事柄」である。

「ゲーデルの不完全性定理」という数学の定理がある。

  • 1不完全性定理
    自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
  • 2不完全性定理
    自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。
    Wikipediaより)

これがその「不完全性定理」だが、理解不能な事柄が誤訳の原因になるとはどういうことかと言うと、上記の第1定理を訳そうとした場合、「自然数論=theory of natural numbers」「帰納的=inductively」「公理系=system of axioms」「ω無矛盾=ω-consistent」など、語は調べれば分かるが、それを使って、「If a system of inductively descriptive axioms, including the theory of natural numbers, is ω-consistent, there are propositions which cannot be proved or disproved.」としても、冠詞は必要か否かなどは判断ができないからである。また、「帰納的に記述できる公理系」とは、「帰納的に記述できる公理の系」(上記の訳はこの解釈)なのか「公理の、帰納的に記述できる系」なのかも断言できない。そうしたことは高等数学の知識があって定理を理解していれば問題にならないことだろう。

とはいえ、翻訳を仕事にしている限り、理解できないからといって翻訳を断ることはできない。コンピュータのことは理解できても、その上で動作するアプリケーションの対象分野に関する知識がなく、意味が分からないというケースは頻繁に起こる。そうした場合、付け焼刃であろうと、とにかく原文を理解しなければならず、常に「理解不能領域」を狭める努力を怠ることはできない。勿論、どんなに努力しても「理解不能領域」を完全になくすことは不可能である。また「理解不能」の中には、上の例のようにこちらの能力・知識の不足から理解できないものもあれば、原文自体が理解するのが不可能な場合もある。ことに、ビジネスの世界では英語が事実上の「公用語」となっており、我々日本人を含め、英語を母語としない人々によって大量の英語ドキュメントが作られている。そうした中にはピリオドもカンマもなく、センテンスが延々と続く文書さえ(稀にではあるが)存在する。

これはいわゆる「産業翻訳」に限っていえることだが、そうした状況においても翻訳者は訳さなければならない場合が多い。翻訳を依頼する側は、翻訳者が頭をひねり、調べに調べ、知識を総動員し、それでも足らずにイマジネーションまでも応援に繰り出して得た訳文から、彼らにとって有意義な情報を引き出すことが決して少なくないのだ。その時、依頼者が有意義な情報をどの程度得ることができるかは、翻訳者が普段から「理解不能領域」を減らすために行っている努力に比例する。

時間的制約も大きい「産業翻訳」では誤訳を恐れていたら仕事にならないが、誤訳を当然と思ったらプロとしては失格だろう。「理解不能領域」を狭める不断の努力--—それ以外に道はない。

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