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2008年1月24日 (木)

下請法と翻訳者

Photo_3ある出版社と揉め事になったことがある。

翻訳を依頼され、契約書も取り交わし、翻訳も初稿を上げて提出したのだが、1年以上経っても何の連絡もなかった。その間に、当該出版物を担当していた人物が退社し、特に引き継ぎもなく放置されていたらしい。

そこで翻訳料について交渉することになったのだが、当初、出版社側は完成稿ではないということで、翻訳料は支払わないと主張した。こちらが「完成稿とするべく手直しをするのは吝かでない」と回答したところ、「それは必要ない。なぜなら、この本は出版しないことになったからだ」という。それでは話が違うので、最後は担当部長と会って協議することになった。

結局、最初に約束した金額の7割を受け取ることで合意したが、その時、担当部長が言った言葉が忘れられない。

 「契約書をよく読んだのですが、翻訳者の方にとってはきわめて不利なものですね」

確かに出版翻訳に関する契約書というのは、私が交わした限りでは極めて曖昧なものが多く、翻訳者に不利な状況に関する規定がない。たとえば上記の、出版が取り止めになった場合、どうするかといった規定などもない。私の場合は、こちらの鼻息が荒かったせいもあっただろうが、事を荒立てるのは会社にとって利益にならないと、担当部長がいわば「大人の判断」をして、7割を支払うことで決着させたのである。

ところが今は下請法(下請代金支払遅延等防止法)(参考)というのがある。

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この法律は,下請代金の支払遅延等を防止することによって,親事業者の下請事業者に対する取引を公正ならしめるとともに,下請事業者の利益を保護し,もって国民経済の健全な発達に寄与することを目的とする。

となっており、私のような個人翻訳者には心強い言葉であり、翻訳業務というのは下請法にいう「情報成果物作成委託」に該当し、同法の適用対象となる(参考)。

そこでこの法律を翻訳業務(主として産業翻訳の場合)に即し、個人翻訳者の視点から見て行くことにする(参考『ポイント解説下請法』)。

まず「親事業者」(発注側)と「下請事業者」(受注側)については、次のような資本金に基づく関係が規定されている。

  • 親事業者の資本金5,000万円超の場合、下請事業者(個人を含む)の資本金は5,000万円以下
  • 親事業者の資本金が1,000万円超5,000万円以下の場合、下請事業者(個人を含むの資本金は1,000万円以下

つまり、親事業者(発注者)の資本金が1,000万円以下の場合、この法律は適用されないことになる。

親事業者の義務には以下のものがある。

 A. 書面の交付義務(3条)
 B. 書類作成・保存義務(5条)
 C. 下請代金の支払期日を定める義務(2条の2
 D. 遅延利息の支払義務(4条の2

産業翻訳では、ABの書類の不備が問題になるケースが多いと考えられる。また、最近では発注書や支払通知などをPDFファイルにして、Eメールで送ってくる翻訳会社もあるが、そうした場合はデータを保存すると同時に、プリントアウトを作成しておくのがよい。

次に親事業者の禁止事項については4条に次の11項目が定められている。

 1. 受領拒否の禁止(11号)
 2. 下請代金の支払遅延禁止(12号)
 3. 下請代金の減額の禁止(13号)
 4. 不当返品の禁止(14号)
 5. 買いたたきの禁止(15号)
 6. 物の購入強制・役務の利用強制の禁止(16号)
 7. 報復措置の禁止(17号)
 8. 有償支給原材料等の対価の早期決済の禁止(21号)

 9. 割引困難な手形の交付の禁止(22号)
 10. 不当な経済上の利益の提供要請の禁止(23号)
 11. 不当な給付内容の変更・やり直しの禁止(24号)

個人翻訳者の場合に問題となるのは、23567911あたりだろう。

2は第3条で定められた必要書類(上記義務A参照)に支払期日を明記することが規定されており、その期日を不当に遅らせることはできないというものである。

3 下請法4条1項3号の規定では、翻訳会社は正当な理由なく、一度定めた翻訳料を減額することができないことになっている。減額については、個人的にはあまり経験がないが、正当な理由に基づくものであればやむを得ないと考える。というよりはセールス・テクニックからすれば、自分から積極的に減額を受け入れる・申し出る、というのも効果的である。そうすることで、謝罪・反省の姿勢を明確に示すことができ、取引の継続確保につながる。無論、その後も同じようなミスを繰り返すようでは話にならないのは当然である。

但し、給付(つまり翻訳文)の「瑕疵に基づく場合」や「納期の遅れによる給付の価値の低下」など、「客観的に相当と認められる範囲内での減額」は認められている(公正取引委員会相談窓口の回答より)。つまり、誤訳や訳文の拙さなどで翻訳会社が大幅に手直しした場合や約束の納品日時に遅れた場合などには、翻訳会社は翻訳料を減額することができる

5の「買いたたきの禁止」(15号)は、最近目に付く「英日翻訳で原文1ワード当たり2円」などというのがこれに相当すると思うのだが、ではそれが実際問題として摘発されるかとなると、翻訳会社サイドからは「下訳としての発注」だったとか、「現実にそういう単価で受ける翻訳者がいるのだから、『同種又は類似の内容の給付に対し通常支払われる対価に比し著しく低い下請代金の額を不当に定めること』には該当しない」といった反論がありそうだ。

こうした「買いたたき」に対してはどう対処したらよいか。そういう単価で仕事を受けている翻訳者に、「べらぼうに安い単価の仕事を受けるのは止めよう」と呼びかけても実効はないだろう。だとすると自分の力を高めて、「やっぱり○○さんでなければダメだ」と認めさせるしかない。個人翻訳者にとって他の翻訳者というのは「利害関係では対立することもある友人・仲間」だというのが私の解釈である。所詮、フリーランスは一人であるという覚悟も必要だろう。因って、不当な単価を提示する翻訳会社とはつき合わない――これに限るということになる。

6の「物の購入強制・役務の利用強制の禁止」については、特定のアプリケーション・ソフトウェアを、「当社の翻訳作業では必須である」と言って購入させる会社があるらしく(私個人は経験がない)、はたしてその購入金額に見合うだけの仕事が発注されるのかというと、そうでもないケースが多いようだ。真っ当な会社というのは、たとえば翻訳支援ツールなどでも、ベンダーとコーポレート・ライセンス契約を結んでいて、翻訳者には無償で貸与してくれるところが圧倒的に多い。これも或いは処世術の部類になるのだろうが、まともに仕事も発注しないうちから「あれを買え、これを買え」と言ってくる翻訳会社は要注意である

7の「報復措置の禁止」とは、たとえば公取委に申告(後述)した下請業者に対して、報復のために取引を停止したりする場合が該当する。但し、これも現実問題としては摘発に至るのは極めて困難だろうと思う。それまで毎月50万円以上の発注があったのが、公取委への申告後ぱったり発注が止まったというような明白な場合は別だが、「いや、今は発注するのに適当な仕事がないんですよ」と言われてしまえばそれまでである。公取委への申告は、その翻訳会社とのつながり(取引)が切れることを覚悟した上で行うべきだろう

9の「割引困難な手形の交付の禁止」というのは、翻訳会社との取引ではあまり関係ないが、ソースクライアントと直接取引する場合は注意する必要がある。一般に製造業では手形決済が多く、またカタログなどの制作・印刷をソースクライアントから受注する立場の印刷会社も翻訳の発注主となるケースが多々あるが、印刷業界も手形を用いる場合が多い。支払が手形による場合、自分が行った翻訳の代金を実際に現金として入手するのに最長で半年近くかかることもあり得る。もっとも、支払までの期間は出版翻訳でも似たようなもので、翻訳原稿を引き渡してからその翻訳料を受け取るまで、概ね数か月から半年はかかると見ておかねばならない。

11「不当な給付内容の変更・やり直しの禁止」とは、たとえば翻訳が終った後で、「渡した原稿が古かった。こっちが新しい原稿なので、これでもう一度翻訳してほしい。なお、前の原稿については翻訳料は払えない・安くしてほしい」といった場合が該当する。これもケースバイケースで対応するのがよいだろう。もし翻訳支援ツールを使用しているのであれば、最初の原稿で使った翻訳メモリーが利用できる可能性が高い。二度目の「正しい原稿」の翻訳は、事実上差分翻訳となる。そんな場合であれば、翻訳料を2倍で請求するよりは相応の減額に応じて「恩を売る」のも手段である。

ところで、下請法に違反しているかどうかの判断はどう行ったらよいのか。その点については公取委が相談窓口(参考)を設けているので問い合わせてみるのがよい。電話でも相談に応じてくれる。また、取引をしている翻訳会社が、この下請法の規定に違反していると判断された場合はどうするべきか。最も手っ取り早い方法は公取委に「申告」して、調査を依頼するというものである(参考)。公取委が調査開始を決定するかどうかは、実際に依頼した後でないと分からないし、調査開始が決定されても、その結果が自分に有利なものになるという保証はなく、また、最終的な結論が出るまでに時間がかかり、こちらから問合せしない限り、公取委から結果の報告がくることもないなど、利用者からすると不満の残る制度ではあるが、弁護士や司法書士に相談するのとは違い、費用は一切かからない

このほか、公取委のWebサイトには「よくある質問コーナー」が設けられており、特に、Q6Q13Q27Q28Q29Q32Q34Q38Q44Q49Q53Q54Q55Q57Q59Q63Q65、Q66、Q67Q68Q69Q70、Q72、Q73、Q74、Q75、Q76、Q77、Q79、Q80、Q81Q83Q86、Q87、Q88、Q89Q90などは目を通しておくことをお奨めする。

冒頭に挙げた出版社とのトラブルの場合、「不当な減額」に該当するのではないかと考える。ただ、こちらも最終稿の形まで仕上げていないという事実がある。それがたとえ、(退職した)担当者と話し合った結果であっても、そのままでは使えない状態であることは確かであり、それをさらに完成させるとなると、第一にモチベーションの維持が難しく(完成させても出版されない)、またそのために要する時間と費用も無視できない。その結果、「3割減額」もやむなしと判断した。

翻訳者と翻訳会社は本来ビジネス上のパートナーである。基本的には長期にわたり、友好的な取引関係を確立することが望ましいことであり、また目指すべき目標である。しかし残念なことに、そうした関係を結びたくなくなるような翻訳会社が存在するのも事実である。そんな翻訳会社に遭遇してしまったら、プロとして相応しい態度と知識、さらには常識に則って主張すべきは主張し、請求すべきは請求すべきであろう。ただ現実問題としては、ひとたびそうした「対立的」関係になった会社とは長続きしない場合が多い。その点は覚悟が必要だ。ここで取り上げた下請法の知識なども活かし、より良い取引先の発見に努めるべきだろう。

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