Shogiブレイクムーブ01 【53】
53.
将棋というのは不思議な存在である。盤上わずか81マスの中に、たった40枚の駒を置き、それを操って戦うだけの単純なゲームであるのに、一生をかけても追究してみたいと思わせる底深い面白さを秘めている。それは僥倖に頼むところが決して少なくない“博打”と違い、目の前の相手を負かすことに己の力を総動員しなければならず、またそうすることに他では味わうことのない喜びが湧き上がってくる深淵を包含している。その深淵から湧き上がる喜びは、人智では到底汲み尽くすことなどできないほど豊かなものである。
そうした無尽蔵の可能性を持つことにより、プロの将棋指しという存在も可能となっている。スポーツにも共通することだが、プロフェッショナルプレーヤーが成立するには、一般人との力量の差が歴然としていることが条件となる。常人には夢のような技術、力、スピード、正確さ…。それらを兼ね備えた上で、衆人環視の中でも平然としてその実力を発揮できる精神力もまた重要な条件だ。
そうした差を生み出すのは種目としての奥深さであり、単純で平板な種目ではプロプレーヤーは生れない。
プロは隣近所の住人が絶対に持っていない、日常では決して目にすることのできない、人間離れしたパフォーマンスを発揮することの対価として金員を得るのである。
将棋のプロもまた、アマチュアとの力の差が存在証明となっている点は例外ではない。事実、将棋のプロとアマの力の差は非常に大きいと言われてきた。確かに、過去のプロ対アマの対局ではプロがアマを圧倒してきた。せいぜいが、角を使わない角落ちの手合いでほぼ五分といったところだろう。角落ちというのは、利き腕を縛って相撲を取るようなものだとの喩えがある程大きなハンディキャップである。
ただ近年、奨励会を退会した元会員がアマチュアとして活躍するようになったり、コンピューターやインターネットといったITの発達によって将棋を勉強する環境が格段に改善されたことから、プロとアマの差は急速に縮まっているという指摘もある。それがプロにとっては、存在の基盤を揺るがす大きな問題になる可能性を秘めていることは確かで、その危機感から、ついには奨励会に限定していたプロへの登竜門に“編入試験”という副道を設けざるを得なくなったのである。
だがプロにとっては、急激に狭まっているといわれるアマチュアとの距離以上に大きな脅威がある。
コンピューター将棋である。
現在はまだ人間のプロ棋士の方が強いというのが通説だが、直接的或いは客観的な証明が為されているわけではない。数年前、当時最強だった将棋ソフトウェアと渡部昇龍王とが対戦し、渡部龍王がかろうじて勝ちを納めたことがあって以来、公の場でのトップ棋士対コンピューターとの対戦は行われていない。
その間にコンピューターの方は、かつてはまったく歯が立たなかったアマのトップ棋士に勝ち越すまで力を付けてきている。やがて、人間の名人がコンピューターに勝てなくなる時がくるのは間違いない。問題はそれがいつかであり、コンピューターに負けるようになった時、果たしてプロ棋士が存続し得るものかどうかということも俄かには断定できない。
プロ棋士の存続という点に関してはもうひとつ、コンピューター将棋とはまったく性質の異なる重大な懸念がある。
プロ棋士たちにとっての最大で唯一といってもよい収入源は新聞社との契約金である。棋士たちは将棋を指し、その棋譜を新聞社は紙面に掲載する。全国紙は例外なく囲碁将棋欄を設けており、毎日棋譜を載せている。
だが今、その新聞社の経営に陰りがきざしつつある。その背景にはインターネットの影響による広告収入の減少、活字離れ、新聞社の高コスト体質など様々な要因があり、既にアメリカでは一流紙と言われる新聞社が赤字に陥っている。
新聞社は年間数千万円から数億円と推定される、全将連との契約金を今後も払い続けられるものなのか。今以上に経営が悪化すれば、新聞社とて利益を度外視するわけにはゆかず、夕刊の廃止やページ数の削減といった紙面上の合理化が進められるだろう。そうした中で、囲碁将棋欄をつぶして代わりに広告を載せることも検討されるに違いない。
将棋欄に使われている代表的なスペースである半三段であれば、年間で3~5億円の広告収入をもたらすことができる。仮に全将連との年間契約料が3億円とすれば、その支出を止め、3~5億円の広告掲載料が入れば合計で6~8億円の増収となる。しかも囲碁将棋欄の閲読率は2%に過ぎないとも言われている。業績がさらに悪化すれば、経営者なら誰でもそんな“不人気なコラム”をつぶし、そのスペースをもっと多くの読者に読んでもらえる記事に充てたり、広告を掲載することによる数億円の増収に目を付けるだろう。
それがプロ将棋を取り巻く状況であり、その中で大沼健志はプロ棋士を目指しているのである。
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