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2011年5月

2011年5月31日 (火)

Shogiブレイクムーブ01 【91】

91.

盤と駒を使って、まず初手から現在の局面までの手順を追ってみた。駒を動かしながら、ハルなら絶対に将棋パッドを使うだろうなと思った。最初からパソコンで将棋を覚えた人間とそうでない人間との違いは、突っ込んだ研究をするときに盤駒を使うかどうかに現れる。

現在の局面までたどり着くと、そこから先手が勝つとしたらどんな局面があり得るかを考える。即座に5、6の局面が思い浮かぶ。その大半で角が大きな役目を果たす形になっている。言い換えれば角の動きを止められた場合、先手の勝利は実現しないことになる。

ではいくつか思いついた先手の勝利局面の中で実際に到達可能なものはあるのか、或いは今はまだ想定できない形での先手の勝利があるのか―健志は今日初めて自分の思考が対局の当事者なみに深まってゆくのを感じた。

おそらくこの将棋の勝敗に関して一つの結論が出ていることを知らないのは対局している2人だけといえるだろう。知らぬまま必死に読み続けることで先人とまったく同じ道をたどっているわけだが、それは今戦っている両者の力が大山十五世名人やその巨人を打ち破った有川九段に匹敵していることの証左とも言えようか。

もし陣基が49年前の大山-有川戦の棋譜を知っていたとしたら、当然先手が負けることは分かっているはずだ。それでも同一手順をたどっているのは、この先に逆転に至る手順を用意しているからではないか。知っているのか、知らないのか……。

万が一このまま大山-有川戦と同じ手順で進み終局となれば、それは将棋史上初めての出来事になるだろう。少なくとも記者は、中盤以降数十手にわたり同一手順が再現されたのを見たことも聞いたこともない。かつて、物理学者で将棋愛好家だった小此木周造博士は、「過去に指された将棋と同一手順の将棋が指されたとき、それは人間における将棋の進化が終息に近づきつつあることの証しになるだろう」と言った。小此木博士の言葉が正しいのなら、この対局は将棋に関して人間がその限界に近付いたことを証明する最初のケースという、とんでもない事態が生じることになる。

健志はネット中継でそんなことが取り沙汰されていることには気づかず、ひたすら考え、駒を動かし、考え、また駒を動かすという作業を続けていた。何かありそうだ。具体的な解答は見つかっていないものの、健志は先手が勝つ手順がありそうに思えてきた。

米原もまた、先手逆転の可能性があるのではないかと疑っていた。それには自分自身の目で見た陣基の絶大な記憶力への畏怖が大いに影響していた。プロ棋士の記憶力―特に将棋の手順(棋譜)に関するプロ棋士の記憶力というのは一般人の理解を超えている。何十年も前に指した棋譜でも間違うことなく再現することができる。だが庄村陣基の記憶力はそうしたプロ棋士と比較してもまったく異次元のものという印象だった。

ただ米原は健志と違い、自分で先手の勝ち筋を探索しようとはしなかった。パソコンの前に坐り、じっと戦況を見つめている。陣基の記憶力を侮ってはいけない。遮光カーテンで日の光を遮って作った人工的な薄闇の中で明るく光るモニターの前に坐り、距離を置いて背中合わせに坐った少年と戦った時の感触が今も脳の表面に残っている。まるで熱いものに触れた指先の皮膚がその熱さをいつまでも記憶しているかのように。「久保田君、この少年を侮っちゃいけないよ」。米原は相手に届くはずもないアドバイスを心の中で発した。

電話が鳴った。

《はい》
《会長、3番に有川先生から電話です》

米原は内線から外線に切り替えた。

《米原です》
《とんでもないことが分かったよ》有川は挨拶もなしにいきなり切り出した。
《何ですか、とんでもないことって》
《まずは資料を見てもらった方がいいだろ。さっきコピーをファックスで送ったんだけど手元に届いてないかな》
《資料ですか》
《ああ女房にも手伝ってもらって、ようやく見つけたんだ》
《特に何も受け取ってませんが》
《ちょっと確認してくれるか》
《分かりました》

通話を保留にすると内線番号をダイヤルした。その時ドアにノックがあり、米原は手を止め「どうぞ」と応えた。思った通り、職員が手にファックスの紙数枚を持って入ってきた。

雑誌の記事だった。執筆者は大山名人。内容は49年前の大山‐有川戦だった―大山名人による自戦解説である。米原は、記事の本文はところどころに目を通す程度にして、各ページに1、2カ所ずつ書かれている棋譜を主に追っていった。いくつもの変化手順を手際よくまとめ、簡潔に分かりやすく解説している。米原にとっては苦手な対戦相手だったが、こうした文章の巧さは認めざるを得ない。ただいずれの解説も一般読者を意識した書き方で、真の意味で突き詰めた解析を行っているわけではない。「こんな素人相手の解説文のどこがとんでもないんだ……」米原は記事の途中で読むのをやめ、電話を取った。

《今ファックス見ました。これ、雑誌ですよね》
《『将棋二十世紀』って雑誌があったの覚えてるだろ》
《ええ》
《あれに大山先生が書いた自戦記だよ》
《で、これのどこに問題が……》
《最後のページを見てくれるか》

米原は有川の言葉に従い6枚目の紙を取り上げた。そこに書かれた「変化手順G」と題する棋譜を目にした途端、米原は頭の中で小さく叫び声を上げた。

その棋譜では先手が逆転勝ちを納めていた。

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2011年5月18日 (水)

Shogiブレイクムーブ01 【90】

90.

記憶というのは不思議だ。あったことさえ忘れていた事柄が何かをきっかけに鮮明に蘇ってくることがある。お菓子だがパンだかを食べて突然湧き上がってきた思い出から、傑作と言われる小説を書いたヨーロッパの作家がいたなあ―米原にとって、有川の一言がまさにその「お菓子」のごとき刺激となって、幾重もの忘却の層の下にあった記憶が引き出されてきた。対局のことが鮮明な絵となって眼前に現れる。

デパートの催事場に設けられた小さなステージ上で2人の棋士が将棋を指していた。その脇に作られたステージの半分ほどの大きさの台の上で、観戦者向けの大盤解説が行われている。その大盤用の駒を動かす係が自分だった。その時立っていた場所から見えた両対局者の姿、解説を担当した加藤九段。

そうだ当日、対局者と解説者の3人は和服の正装だった。自分は詰襟の学生服だったろうか。そして目の前にあった大きな将棋盤―確かにあの時後手は7五歩と指した。こんなタイミングで歩を突いて大丈夫なのかと、ハガキぐらいの大きさがある「歩」を移動させながら考えたことを思い出した。

《おかげさまで思い出しましたよ》
《そう、よかった。まあ考えてみれば、自分が指したわけでもない50年近く前の将棋をうろ覚えでも覚えていたっていうのはすごいことかも知れませんよ》
《歩を突くタイミングがちょっと独特だなって感じたのを覚えてます》
《そんなに変わってたかなあ。ま、50年後に、こうして時(とき)の棋帝が指したんだから、時代の先を行っていたってことなんだよ》有川は小さく笑っていた。《いずれにせよ、ここが作戦の分岐点でね。先手は7五の歩を守るか攻め合いに出るかなんだけど……》
《大山先生は守ってますね》
《まあ、大山先生の棋風からすれば当然だよね》
《先手が指しましたよ。銀を上げて歩を守りましたね》
《だとすると、この後しばらくは私と大山先生の対局と同じ進行になるね》

その言葉はある意味、有川がこの後の自分の指し手に対して持っている絶大な自信の表れということができるかもしれない。つまり、「俺が指したのは最善手ばかりで、力があるやつが指せば必然的に同じ手順になる」という確固たる思いである。

《まあそんなことはないでしょうけど、二人がこのまま大山‐有川戦通りに指して行けば久保田君の勝ちになるわけで、こちらとしては喜ばしい結果になるわけで問題はありません》
《そういう風に話が進んでくれるといいんだが……》何か屈託のあるもの言いだったが、有川はそれ以上は言葉を進めず、《とにかくこっからしばらくは黙って観戦してみることにしようか》
《ええ》

既に平野から連絡を受けていたのだろう、ネット中継のコメント欄に有川からの情報が掲載された。

先ほど有川九段より大変貴重な情報をいただいた。本局が49年前に指された将棋と非常によく似た展開だということである。その49年前の将棋とは▲大山名人-△有川八段戦(いずれも当時)で、有川九段よりお送りいただいた棋譜をこちらで入力し解析したところ、初手から7手目までが同一で、その後の手順は多少異なるものの、まったく同じ局面が合計3回現れている。

健志はパソコン画面でコメントを確認すると、ふと気になり携帯電話を取り出して、高畑にかけた。「おかけになった電話は現在電源が入っていないか……」予想通り、TMC研究所の中にいる高畑に電話は通じなかった。

「大沼です。時間があったら連絡をいただけますか、よろしくお願いします」

留守録サービスにメッセージを残して電話を切ると、視線をパソコンの画面に戻した。

久保田棋帝の△7五歩からは、その大山-有川戦とまったく同じ手順をたどっている。同一の進行になってから既に10手以上が進んでいる。控室の検討では、△7五歩はジャブのように、攻撃の手としては軽い手ではあるものの、非常に的確にヒットした一手だったという。その結果、それまで攻勢だった先手が慎重になり防御の姿勢を強め、徐々に攻守が入れ替わって行き、今は後手の攻勢、先手の守勢へと変わりつつあるという。しかも後手の手順は最善の連続で、わずかな齟齬もない。

健志は同時に公開されている「観戦ブログ」に大山-有川戦の棋譜が掲載されているのを確認すると、画面の隅に小さな将棋盤を開いた。次にカーソルを棋譜に移動させ、初手から最終手までをドラッグ&コピーする。そのデータを将棋盤まで持って行き、盤の上でペーストする。即座にデータが読み込まれる。

[連続再生]のボタンをクリックすると、パソコンの画面上で大山名人と有川八段の戦いが猛スピードで再現され1分もかからずに完了した。おそらく一般人が見たら、再生される駒の動きを追いかけるだけで精一杯で、途中の局面や駒台に置かれた駒のことなどはまったく把握できなかっただろう。だが、健志はそうやって再生した将棋を完全に理解し記憶していた。無論、健志も米原のように、紙に書かれた棋譜を読んで頭の中でその将棋を再生することはできる。それに加えて、今健志がやったように1秒間に2~3手という速さで駒の動きを再生して、それを記憶することができるのはパソコンが普及した時代に生まれ育った若手棋士に広く見られる特徴だった。

はたして庄村選手はこの将棋を知らないのか。知らずに、しかし結果として大名人大山康晴と同じ手順を指しているとしたら恐ろしい13歳である。また知っていながら、敢えて相手の指し手に追随しているのだとしたら、それもまた驚異である。答えはどっちだ。

このまま大山-有川戦通りに進めば、陣基は負ける。そのことを―つまり、49年前の将棋の結末を陣基は知っているのだろうか。何の根拠もなかったが、健志は、この棋譜も陣基のメモリーにあるのではないかと思うようになっていた。だがそうは思っても、なぜ自分が負けると分かっている手順を陣基が続けているのかまでは分からない。

そう考えた時、健志はあることに気付いた。その途端、心臓が大きく脈打った。健志はパソコンを離れ、将棋盤の前に戻った。自分が気付いたことが事実かどうかを確かめるために。

*一部加筆変更しました。
【続く】
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2011年5月 5日 (木)

Shogiブレイクムーブ01 【89】

89.

突然事務所に入ってきた会長に気付いた全員が凍り付いたように動かなくなった。ある者は机から顔を上げ、ある者は他人のパソコンの画面をのぞき込んだ姿勢で、ある者は受話器を耳にあてたまま、誰もが入口のドアを開けて立つ米原をじっと見つめている。

「あ、すまない。大したことじゃないんだ。そのまま続けて、続けて」

米原がそう言うと、職員たちは呪文を解かれた石像のように動き出した。

「平間くん」

米原が声をかけたのはパソコンの前に坐っていた若い男性職員だった。

「はい」

呼びかけに応じて平間が席を立つ。

「すまないが、ちょっと手伝ってもらえるかい」
「はい」

会長にそう言われて断るわけにもいかず、平間は一歩ずつ躊躇しながら米原に近付いて行った。

「実はデータベースに入ってない古い棋譜を調べたいんだけど、どうやったら探せるかな」
「対局日が分かっていれば簡単に探せますけど……」
「それが分からん場合は?」
「対局者の名前から探すという方法もあります」
「それも分からない場合は?」

その質問に相手が考え込む。やがて、恐るおそるといった風に平間が尋ねた。

「会長、分かってることって何でしょうか」
「それが駒の配置、それも対局途中の駒の位置だけなんだ」
「うーん……、それだとデータベースにない場合は絶望的ですね」そう言いながら、部屋の隅にある大型の書類キャビネットに向かって歩き始める。「ご存知でしょうが、電子化してない古い棋譜は年代順に整理して保存してあります。インデックスはありません。だから特定の棋譜を探し出そうとすればしらみつぶしに当たって行くしかないんです」

そういってキャビネットの扉を開けた。中にはファイルが整然と並べられている。

「これがまだデータベースに入ってない棋譜かあ」米原がその意外に多いファイルの数に気落ちしたような声を発した。
「それともう一つ問題があります」
「ん、何だね」
「会長を始め棋士の人たちは、棋譜を見るだけでその将棋を頭の中で再現できますが、僕らにはそんなこと到底無理ですから、1局1局、盤に並べてみる以外ありません。それをここにある棋譜全部でやるとしたら……私ひとりだったら何年もかかっちゃいます」
「いったいここには何局分の棋譜があるのかね」
「正確な数は分かりませんが、2、3万ってところでしょうか」
「そんなに……」

そう言いながら米原は、庄村陣基の姿を思い返していた。あの少年はここにある以上の棋譜を全部記憶してるのか。今、全将連代表の久保田棋帝と戦っている華奢な少年が持つ底知れぬ能力に畏怖を覚えた。

「会長、ひょっとして調べようとしてるのは、今やってる対抗戦の将棋ですか」
「ん、ああ……」
「だったら、ちょっと待っていただけますか」
「ああ……」不得要領のまま米原が応えると、平間は急ぎ足で自分の席に戻って行った。

「会長……」そう言って近付いてきたのは課長の小野寺だった。「平間くんではお役に立てなかったんでしょうか」

米原は常に自分の評価だけを気にかけて仕事をするこの男が嫌いだった。

「いや大丈夫だよ。じゅうぶん助かってる」
「それならいいんですけど……」
「ところで将棋の方は何手まで進んだかね」
「え、将棋といいますと……」
「決まってるだろ、久保田君が指している将棋だよ」
「いや私は……」
「とぼけなくてもいいよ。全将連の職員なんだ、自分たちの代表が戦ってる他流試合が気になるのは当然だ」
「あ、はい。つい今、久保田先生が7二に飛車を振り戻したところです」
「じゃ、先手は7五同歩と応じたってことか」
「はい」

その時平間が声をかけてきた。

「会長!」

米原は呼びかけに応じて平間の席に向かった。振り向きもしなかったが、おそらく後ろで小野寺は深々とお辞儀をしているだろう。

「何か分かったか」
「今回の対局では松木さんがネット配信の担当で、私はサポート役の一人なんです。ちょっとこれを使ってください」そう言って平間が指し出したのはヘッドフォントとマイクが一体になったヘッドセットと呼ばれるものだった。米原は平間の隣の席に腰掛け、ヘッドセットを取り付けた。

「話してみてください」

そう言われたが、何と言ってよいか分からず、「もしもし……」と言った途端、

《会長ですか、松木です》と声が返ってきた。
《おお、松木君か……、この道具はいったい何だね》
《インターネット電話ですよ。普通の電話機は使わずパソコンを介して話ができるんです。いくら話しても電話代がかからないので、こういうネット中継などでの業務連絡には便利なんですよ》
《インターネット電話ねぇ、いろんなもんがあるんだなぁ》
《話は平間君から聞きました。実はこっちでも、この将棋に類似局がないか調べてたところです》
《それで……》
《全将連データベースにはありませんでした》

それは私も知っている。だからわざわざこうして事務所までやってきたんだ。米原は腹の中でそう応じた。

《……そこで今、有川先生に調べていただいているところです》
《有川さんに……》
《ええ、有川先生は独自の方法で過去の棋譜を収集、整理しておられるので、これまでにも何度か過去の棋譜調べで助けていただいたことがあるんですよ》

有川文雄は米原よりもさらに上の世代の棋士である。長年、最高齢棋士として現役をはってきたが、昨年引退した。その有川が自分で考案した方法で、過去の棋譜を整理して実戦の参考としていたことは引退後、本人が雑誌のインタビューで明らかにしたことだった。

事務所の電話が鳴った。いち早く受話器を取った女子職員が二言三言相手と言葉を交わすと、「平間さん、2番に有川先生です」と言った。

「もしもし、平間です」
《有川先生からの電話のようですね》マイクを通して事務所内のやり取りが聞こえるのだろう、松木が言った。
「そうですか、分かりましたか……ありがとうございます」と平間が受話器に向かって礼を言った。
《どうやら、有川さんが見つけてくれたようだぞ》
《そいつは助かります。ところで会長……》
《ん、何だね》
《会長もこの将棋に似たものが過去にあったと感じられたということですが、どの辺でそのことに気付かれたんでしょうか》
《うん、手の流れは違うようなんだが、あのタイミングでの△7五歩という手が引っかかったんだよ。それに玉形もあると思うんだが》
《だいぶ古いイメージの将棋ですよね》
《そうだな、大山・升田時代ってあたりかな……。だけどそれだったらデータベースにあって当然だろうと思うんだけど、なかったんだよなぁ》

そこまで話した時だった、

「会長、有川先生がお話したいって言ってます」平間がそう言って受話器を指し出した。米原は一瞬躊躇した。お互いに現役で対戦していた頃から、有川は苦手だった。たぶん対戦成績もこっちの方が負け越しているはずだ。ヘッドセットを平間に返し、受話器を受け取った。

《もしもし、ご無沙汰してます》米原は自分の声が固いことに気付いた。
《久しぶりだね》相手の声は存外に明るかった。《しかしヨネさんも、あの対局を思い出したなんて、さすがだね》
《あの対局?》
《ああそうだよ。思い出したから確認しにわざわざ会長室から下りてきたんじゃないの》
《いや実は……》

米原はデータベースで見つけることができなかったことを説明した。

《何でもかんでもパソコンに頼っちゃいかんてことだな。もっとも今日は僕も孫娘にセッティングしてもらったパソコンで、久保田君たちの将棋を見せてもらってるんだけどね》
《有川先生、あの対局というのは……》
《どうやら本当に憶えてないみたいだね。今ファックスで棋譜を送ったから、なぞ解きはそのファックスを見てからしてあげるよ》

全将連会長といえど有川にとって米原は後輩の一人であり、言葉の端々についついその意識が現れてしまうのは自然と言えば自然なことだった。一方の米原も久しぶりの同窓会で会った苦手な先輩を前にしたようにへりくだった態度に自ずとならざるを得なかった。

《はい、よろしくお願いします》

気付くと、書類を手にした女子職員が脇に立っている。「何かね」と米原が目で尋ねると、その女子職員は書類の表を見せ、目で「平間さん宛てのファックスです」と応えた。米原はゆっくりと頷いて書類を受け取った。おそらく有川自身の手によるものだろう、几帳面な字で書かれた棋譜だった。

米原はその棋譜を一気に投了までたどる。プロ棋士の能力というものに一般人はしばしば驚かされるものだが、彼らの棋譜を読み取るスピードというのも常人の理解を超えたものがある。総手数105手のその棋譜を米原は1分余りで読み終えた。確かにこの将棋、自分は知っていた。後手7五歩からの攻撃が予想外に強力で、結局後手が勝った。だが誰の将棋だったんだ? 対局者名の欄を見て驚いた。

  先手:大山康晴
  後手:有川文雄

有川本人が指した将棋だった。指されたのは49年前……ぎりぎりだがデータベースに入っていておかしくない年だ。

米原はファックスを平間に渡すと、受話器に向かって呼びかけた。

《今ファックス見ました》
《どう、思い出した?》
《ええ、将棋自体はおぼろげながら見たような気がします。ただ……、どこで見たのかははっきりしませんし、なんでデータベースで見つからなかったのかも……》
《それじゃ、なぞ解きをしましょうかね》有川の声には自分が勝った将棋の感想戦でのような優越とゆとりがあった。《あれはね、名古屋のデパートで開かれた将棋祭りの席上対局だったんですよ》
《席上対局?》
《あの年、僕はえらく調子が良くて若手でナンバーワンの成績だったんですよ。それで将棋祭りの主催者サイドからぜひ大山先生と私の組合せで席上対局をという要望があってね、それで実現したわけです》
《公式戦じゃないからデータベースにはなかったと……》
《そういうことです》
《しかし公式戦でもない将棋をなんで私は見たなんて思ったんでしょう》
《それはヨネさん、あんたが本当に見たからですよ》
《私が?》
《本当に思い出せないみたいですね。天才米原にも弱点ありってとこかな、ふっふっふっ……》

米原は黙っているしかなかった。

《手元にその時の写真があるんですがね》有川が言葉を続ける。《対局者の脇に大盤があって、解説してるのは加藤先生なんですが、もう一人、長身の若者が大盤の駒を操作してるんですよ》
《あっ!》
《その通り、ヨネさんだったんですよ、その若者が》

*一部加筆変更しました。
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《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

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