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2011年5月 5日 (木)

Shogiブレイクムーブ01 【89】

89.

突然事務所に入ってきた会長に気付いた全員が凍り付いたように動かなくなった。ある者は机から顔を上げ、ある者は他人のパソコンの画面をのぞき込んだ姿勢で、ある者は受話器を耳にあてたまま、誰もが入口のドアを開けて立つ米原をじっと見つめている。

「あ、すまない。大したことじゃないんだ。そのまま続けて、続けて」

米原がそう言うと、職員たちは呪文を解かれた石像のように動き出した。

「平間くん」

米原が声をかけたのはパソコンの前に坐っていた若い男性職員だった。

「はい」

呼びかけに応じて平間が席を立つ。

「すまないが、ちょっと手伝ってもらえるかい」
「はい」

会長にそう言われて断るわけにもいかず、平間は一歩ずつ躊躇しながら米原に近付いて行った。

「実はデータベースに入ってない古い棋譜を調べたいんだけど、どうやったら探せるかな」
「対局日が分かっていれば簡単に探せますけど……」
「それが分からん場合は?」
「対局者の名前から探すという方法もあります」
「それも分からない場合は?」

その質問に相手が考え込む。やがて、恐るおそるといった風に平間が尋ねた。

「会長、分かってることって何でしょうか」
「それが駒の配置、それも対局途中の駒の位置だけなんだ」
「うーん……、それだとデータベースにない場合は絶望的ですね」そう言いながら、部屋の隅にある大型の書類キャビネットに向かって歩き始める。「ご存知でしょうが、電子化してない古い棋譜は年代順に整理して保存してあります。インデックスはありません。だから特定の棋譜を探し出そうとすればしらみつぶしに当たって行くしかないんです」

そういってキャビネットの扉を開けた。中にはファイルが整然と並べられている。

「これがまだデータベースに入ってない棋譜かあ」米原がその意外に多いファイルの数に気落ちしたような声を発した。
「それともう一つ問題があります」
「ん、何だね」
「会長を始め棋士の人たちは、棋譜を見るだけでその将棋を頭の中で再現できますが、僕らにはそんなこと到底無理ですから、1局1局、盤に並べてみる以外ありません。それをここにある棋譜全部でやるとしたら……私ひとりだったら何年もかかっちゃいます」
「いったいここには何局分の棋譜があるのかね」
「正確な数は分かりませんが、2、3万ってところでしょうか」
「そんなに……」

そう言いながら米原は、庄村陣基の姿を思い返していた。あの少年はここにある以上の棋譜を全部記憶してるのか。今、全将連代表の久保田棋帝と戦っている華奢な少年が持つ底知れぬ能力に畏怖を覚えた。

「会長、ひょっとして調べようとしてるのは、今やってる対抗戦の将棋ですか」
「ん、ああ……」
「だったら、ちょっと待っていただけますか」
「ああ……」不得要領のまま米原が応えると、平間は急ぎ足で自分の席に戻って行った。

「会長……」そう言って近付いてきたのは課長の小野寺だった。「平間くんではお役に立てなかったんでしょうか」

米原は常に自分の評価だけを気にかけて仕事をするこの男が嫌いだった。

「いや大丈夫だよ。じゅうぶん助かってる」
「それならいいんですけど……」
「ところで将棋の方は何手まで進んだかね」
「え、将棋といいますと……」
「決まってるだろ、久保田君が指している将棋だよ」
「いや私は……」
「とぼけなくてもいいよ。全将連の職員なんだ、自分たちの代表が戦ってる他流試合が気になるのは当然だ」
「あ、はい。つい今、久保田先生が7二に飛車を振り戻したところです」
「じゃ、先手は7五同歩と応じたってことか」
「はい」

その時平間が声をかけてきた。

「会長!」

米原は呼びかけに応じて平間の席に向かった。振り向きもしなかったが、おそらく後ろで小野寺は深々とお辞儀をしているだろう。

「何か分かったか」
「今回の対局では松木さんがネット配信の担当で、私はサポート役の一人なんです。ちょっとこれを使ってください」そう言って平間が指し出したのはヘッドフォントとマイクが一体になったヘッドセットと呼ばれるものだった。米原は平間の隣の席に腰掛け、ヘッドセットを取り付けた。

「話してみてください」

そう言われたが、何と言ってよいか分からず、「もしもし……」と言った途端、

《会長ですか、松木です》と声が返ってきた。
《おお、松木君か……、この道具はいったい何だね》
《インターネット電話ですよ。普通の電話機は使わずパソコンを介して話ができるんです。いくら話しても電話代がかからないので、こういうネット中継などでの業務連絡には便利なんですよ》
《インターネット電話ねぇ、いろんなもんがあるんだなぁ》
《話は平間君から聞きました。実はこっちでも、この将棋に類似局がないか調べてたところです》
《それで……》
《全将連データベースにはありませんでした》

それは私も知っている。だからわざわざこうして事務所までやってきたんだ。米原は腹の中でそう応じた。

《……そこで今、有川先生に調べていただいているところです》
《有川さんに……》
《ええ、有川先生は独自の方法で過去の棋譜を収集、整理しておられるので、これまでにも何度か過去の棋譜調べで助けていただいたことがあるんですよ》

有川文雄は米原よりもさらに上の世代の棋士である。長年、最高齢棋士として現役をはってきたが、昨年引退した。その有川が自分で考案した方法で、過去の棋譜を整理して実戦の参考としていたことは引退後、本人が雑誌のインタビューで明らかにしたことだった。

事務所の電話が鳴った。いち早く受話器を取った女子職員が二言三言相手と言葉を交わすと、「平間さん、2番に有川先生です」と言った。

「もしもし、平間です」
《有川先生からの電話のようですね》マイクを通して事務所内のやり取りが聞こえるのだろう、松木が言った。
「そうですか、分かりましたか……ありがとうございます」と平間が受話器に向かって礼を言った。
《どうやら、有川さんが見つけてくれたようだぞ》
《そいつは助かります。ところで会長……》
《ん、何だね》
《会長もこの将棋に似たものが過去にあったと感じられたということですが、どの辺でそのことに気付かれたんでしょうか》
《うん、手の流れは違うようなんだが、あのタイミングでの△7五歩という手が引っかかったんだよ。それに玉形もあると思うんだが》
《だいぶ古いイメージの将棋ですよね》
《そうだな、大山・升田時代ってあたりかな……。だけどそれだったらデータベースにあって当然だろうと思うんだけど、なかったんだよなぁ》

そこまで話した時だった、

「会長、有川先生がお話したいって言ってます」平間がそう言って受話器を指し出した。米原は一瞬躊躇した。お互いに現役で対戦していた頃から、有川は苦手だった。たぶん対戦成績もこっちの方が負け越しているはずだ。ヘッドセットを平間に返し、受話器を受け取った。

《もしもし、ご無沙汰してます》米原は自分の声が固いことに気付いた。
《久しぶりだね》相手の声は存外に明るかった。《しかしヨネさんも、あの対局を思い出したなんて、さすがだね》
《あの対局?》
《ああそうだよ。思い出したから確認しにわざわざ会長室から下りてきたんじゃないの》
《いや実は……》

米原はデータベースで見つけることができなかったことを説明した。

《何でもかんでもパソコンに頼っちゃいかんてことだな。もっとも今日は僕も孫娘にセッティングしてもらったパソコンで、久保田君たちの将棋を見せてもらってるんだけどね》
《有川先生、あの対局というのは……》
《どうやら本当に憶えてないみたいだね。今ファックスで棋譜を送ったから、なぞ解きはそのファックスを見てからしてあげるよ》

全将連会長といえど有川にとって米原は後輩の一人であり、言葉の端々についついその意識が現れてしまうのは自然と言えば自然なことだった。一方の米原も久しぶりの同窓会で会った苦手な先輩を前にしたようにへりくだった態度に自ずとならざるを得なかった。

《はい、よろしくお願いします》

気付くと、書類を手にした女子職員が脇に立っている。「何かね」と米原が目で尋ねると、その女子職員は書類の表を見せ、目で「平間さん宛てのファックスです」と応えた。米原はゆっくりと頷いて書類を受け取った。おそらく有川自身の手によるものだろう、几帳面な字で書かれた棋譜だった。

米原はその棋譜を一気に投了までたどる。プロ棋士の能力というものに一般人はしばしば驚かされるものだが、彼らの棋譜を読み取るスピードというのも常人の理解を超えたものがある。総手数105手のその棋譜を米原は1分余りで読み終えた。確かにこの将棋、自分は知っていた。後手7五歩からの攻撃が予想外に強力で、結局後手が勝った。だが誰の将棋だったんだ? 対局者名の欄を見て驚いた。

  先手:大山康晴
  後手:有川文雄

有川本人が指した将棋だった。指されたのは49年前……ぎりぎりだがデータベースに入っていておかしくない年だ。

米原はファックスを平間に渡すと、受話器に向かって呼びかけた。

《今ファックス見ました》
《どう、思い出した?》
《ええ、将棋自体はおぼろげながら見たような気がします。ただ……、どこで見たのかははっきりしませんし、なんでデータベースで見つからなかったのかも……》
《それじゃ、なぞ解きをしましょうかね》有川の声には自分が勝った将棋の感想戦でのような優越とゆとりがあった。《あれはね、名古屋のデパートで開かれた将棋祭りの席上対局だったんですよ》
《席上対局?》
《あの年、僕はえらく調子が良くて若手でナンバーワンの成績だったんですよ。それで将棋祭りの主催者サイドからぜひ大山先生と私の組合せで席上対局をという要望があってね、それで実現したわけです》
《公式戦じゃないからデータベースにはなかったと……》
《そういうことです》
《しかし公式戦でもない将棋をなんで私は見たなんて思ったんでしょう》
《それはヨネさん、あんたが本当に見たからですよ》
《私が?》
《本当に思い出せないみたいですね。天才米原にも弱点ありってとこかな、ふっふっふっ……》

米原は黙っているしかなかった。

《手元にその時の写真があるんですがね》有川が言葉を続ける。《対局者の脇に大盤があって、解説してるのは加藤先生なんですが、もう一人、長身の若者が大盤の駒を操作してるんですよ》
《あっ!》
《その通り、ヨネさんだったんですよ、その若者が》

*一部加筆変更しました。
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