« Shogiブレイクムーブ01 【96】 | トップページ | 暫しお待ちを »

2011年8月 7日 (日)

Shogiブレイクムーブ01 【97】

97.

健志は自分が普段とは違っていることに気付いていた。対局が始まって間もない時間帯であれば周囲のあれやこれやが気になることはしばしば経験することだが、渡部龍王との戦いは既に4時間近くに及んでいる。それなのに、ともすると意識が周りの音や光の変化、観客席の動きへと向いてしまう。「そんなことでどうする」と自分を叱咤しても将棋への集中は長く続かず、また思考の深さも足りないという感覚を拭いきれない。

ここまでは序盤戦であったため定跡や過去の対局を頼りに指し進めることができ、大きなミスを犯すことなくどうにか互角の形勢を保ってきたが、中盤に入れば読みと形勢判断の正確さが一段と重要になってくる。このままでは、特に終盤に強さを発揮する龍王が相手である、勝負形にも持ち込めないのではないか。腹の底あたりで焦燥がチリチリと小さな火花を発し始めていた。

自分の異変に気付いたのは昼食休憩の時だった。ステージ上に設けられた特設対局場から舞台裏の控室に戻り、テーブルに置かれた食事を見て健志は思わず世話係の女性に尋ねた。

「これは……?」
「ご注文のカレーですけど」

おそらく有名なホテルかレストランから取り寄せたのだろう、テーブルには銀製のトレーに同じく銀のカレーポットと、ご飯が盛られた豪華な紋様入りの大きな皿が置かれていた。

「僕が頼んだんですか」
「はい」

健志にはそんな注文をした記憶がまったくなかった。母ぐらいの年齢のその女性は初め笑みを浮かべていたが、健志の様子に異様な雰囲気を感じ取ったのだろう、

「ご用意できる料理の一覧をお見せしたらカレーを選ばれたのですけど…、お気に召さないようであれば別のメニューをご用意しますが」
「あ、大丈夫です」健志は即座に応えた。
「本当に、よろしいんですか」
「はい」

その言葉に女性は「それではごゆっくり」と一礼すると部屋を出て行った。

胃に何かがあると思考が濁るような気がするため、健志は奨励会三段になった頃から対局中は昼飯を食べなくなった。それなのにメニューを選んでいる。それもカレーなんて、食べなくちゃいけなくなったとしても、対局中の昼飯には絶対に選ばないような料理を注文している。

その理由は分かっていた。

庄村陣基が倒れ、また久保田棋帝がネット上で「感想戦」をハルと戦うという軽率な行動に出た責任を取って辞退したことで双方の代表選手が2人ずつになるという事態を受け、対抗戦を続けて行くには多少の手直しが必要だという点で全将連とCASSAの認識は一致した。その対応についてCASSA内部で話し合った際にナツキから意見を求められた健志は「なんなら、僕の対局はネットじゃなくてもいいですよ」と応えたのだが、それがどこでどう歪曲されたのか、観衆を前にした公開対局となってしまったのだ。

公開対局など健志にはまったく経験のないことであり、もともと人前で何かをするということが苦手な性質(たち)である、「あがってるんだ」健志はそう判断した。だが原因が分かっても、それで事態が改善するわけではなく、昼食後再開されてから相当の時間が経過した今もまだ普段の自分を取り戻せずにいた。

「こんな浅い集中のままじゃ、龍王相手に勝負にならない。どうにかしなければ……」

そう考えながら健志は顔を上げ、今正面に坐り、ややうつむき加減に盤面を見つめている渡部龍王の頭に視線をやった。まだ20代半ばながら、20歳で取った初のタイトルを7期にわたって守っている、将棋界を代表する棋士の一人である。柔軟かつ機敏な序盤の作戦力、中盤で見せる鋭い着想、「他の棋士よりも10手早く詰みを発見する」と云われる終盤の深く広い読み―棋界の次代を担う存在と目されている。

体は決して大きくないが、こうして盤をはさんで対峙すると圧倒されそうな存在感がある。「相手の名前に負けるな。目の前の局面だけに集中しろ」というのは、実績ある強豪と対戦する時に若手が心がけるべき鉄則なのだが、今健志は、観客を前にした公開対局ということも手伝って相手に気圧されていることを自覚していた。

渡部龍王は羽織袴の、いわば棋士としての正装に身を包んでいたが、健志は敢えてスーツを選んだ。昔、「将棋に集中したい」、「将棋以外のことに気を遣いたくない」とスーツで名人戦七番勝負を戦った棋士がいたが、健志も同じ心境だった。だいいち健志はまだ和服を一人で着ることができない。人の手を借りて形だけを取り繕うことになる気がして、全将連からの「できれば和服で対局を」という要請を断った。

それでなくとも平常な気持ちを保てないでいるのだ。その上、衣服にまで気を使わなければならなかったら、将棋にならなかっただろう。健志は自分の判断が正しかったと確信し、今少し気持ちが楽になった。それが多少心に余裕をもたらしたのだろうか、健志は会場を見渡す気になった。

観客席は照明が落とされているため、ステージ上からは観客の顔は判別できない。500人収容の客席はほぼ埋まっていたが、それほどの人数が直ぐ近くにいることが信じられないほど会場は静まり返っていた。大盤解説もなく(解説は別の会場で行われている)、時には1手に10分も20分も考えることがあるにもかかわらず、こうして多くの人がじっと熱心に見守ってくれているという事実を目の当たりにして健志は自分の中に沸々と湧き上がってくるものを感じた。

チッという小さな音がした。渡部龍王が指し手を進めた。駒から離れて行く相手の指を目で追い、盤面に視線を戻す。その時、対局が始まって以来初めて健志は自分の頭の中にある盤面と目の前の将棋盤がシンクロしたような感触を覚えた。視界から盤と駒と駒台以外のものがすっと消えた。

思考に力強さが加わってきた。頭の中で描く局面がどんどんと未来に向かって展開してゆく。どうにか戦えそうだ―健志は確固とした手応えをつかんだ。

次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

|

« Shogiブレイクムーブ01 【96】 | トップページ | 暫しお待ちを »

【Fiction】」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/220529/52418553

この記事へのトラックバック一覧です: Shogiブレイクムーブ01 【97】:

« Shogiブレイクムーブ01 【96】 | トップページ | 暫しお待ちを »