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2011年10月

2011年10月 8日 (土)

Shogiブレイクムーブ01 【98】

98.   

CASSA代表としてこの対抗戦に出ることを表明してからは全将連の棋士としての対局はすべて中止ないし延期の処置がとられたが、それでも健志は既にプロ棋士として15局の将棋を指していた。対戦相手はすべて違い、段位も健志と同じ四段の若手から父親よりも年上の七段まで様々だった。結果は健志の全勝である。  

デビューから15連勝というのは新記録だと聞かされたが、健志は特に嬉しいとも思わなかった。すべてではないが対戦した中には率直に言って、「これでプロか」と思うような非力な者もいて、プロになれば強い相手と次々と対戦できると漠然と期待していた健志には意外であり、拍子抜けのようであり、またある種ショックでもあった。 

対抗戦の話を聞き、CASSA側から出場する決心をした理由に、そうした予想外の状況に直面したことが影響していたのは確かである。もっと強い棋士と戦いたい。持てるすべての力を振り絞ってようやく対抗できるような真の力に接したい。プロになってほんのわずかな時間しか経っていないのに偉そうな口をきくなと言われるかもしれないが、健志の中でその希望は願望へと変わり、やがて抑え難い渇望へと変化し始めていた。   

現在の棋界で最強である3人の棋士と戦える絶好のチャンスだと知った時―今人類に可能な最高度の将棋を指す棋士たちとの対戦だと分かった時、健志は躊躇しなかった。   

今こうして久しぶりに勝負の盤の前に坐り棋界三強の一人と対峙しながら、健志は自分の中の「渇き」が徐々にやわらいでいくのを感じていた。

将棋を指したい、それも強い相手と指したいという思いが脳の中で乾ききった舌のようにひりついていたが、それは遠い昔、将棋を憶えたばかりの頃、学校から帰ると直ぐに将棋盤と駒を用意して、父の帰りを今か今かと待っていた時の心境に似ていなくもない。が、あの時の浮き立つような喜びはなく、もっと喉の渇き同様に生理的な要求或いは苦痛に近かった。   

その苦痛がやわらぎ、会場の雰囲気にも慣れてきたのだろう、健志は自分が思考=読みを自在に操れるようになったのをはっきりと感じ取った。  

「読み」というのは単純に言ってしまえば頭の中に将棋盤を思い浮かべ、その上で駒を動かすことである。だがそれがともすると、本人の意思とは無関係に「動く」ことがある。自分は桂馬を動かそうと思っても頭の中では銀が動いてしまったり、まったく関係のない駒を動かしたりといったことが、特に目の前の局面から遠い先まで読み進めた時などに起こる。 

また、読んだ結果を記憶しておくことも重要なことだが、それもままならなくなることがある。現在の局面において「A」と「B」という2つの選択肢があり、その先常に2つの選択肢が存在するとした場合、10手先まで読めば読む手の総数は1024手になる。その中で自分にとって最も有利な手や不利な手を覚えておかなければならず、実際には一つの局面で通常選択肢は2~4つはあるため、読む手数ははるかに多くなる。そんな状況で一度読んだ手を二度も三度も繰り返し読んでいたのでは持ち時間は直ぐになくなってしまう。   

集中力の欠如はそうした読みの繰り返しという形でも現れる。 

龍王の指した手を見た健志は心の中で小首を傾げた。予想していた手の中では最も評価が低い手だったからだ。もちろん、形勢を損ねてしまう「悪手」というのではないが、もっと龍王側にとって大きな有利に結び付く手があるのになぜ敢えてその手を選んだのか…。健志は慎重に読みを入れてから応手を指した。 

「あなたの意図は分かっていますよ」 

それはそんなメッセージを相手に伝える手だった。健志が駒から指を離す瞬間、渡部龍王がこちらを見たのが分かった。露骨な返答にカチンときたのかもしれないな、と健志は少し愉快な気持ちになった。これで龍王が「怒って」くれれば、健志が望む脳の中が痺れてくるようなきつく激しい戦いに展開してゆく可能性がある。   

「君が勘付いたのは分かった。それじゃこれはどうかな?」  

数手前から局面の主導権を握っている龍王が若干方針を修正した手を指してきた。それもまた、健志が一番には考えなかった手だった。過去の棋譜を調べた時には分からなかったがそれも龍王の棋風なのだろうか。或いは終盤戦に絶対的自信を持っているからこその作戦だろうか。   

将棋の序盤は見晴らしのきく広い平原を行くのに似ている―ある程度先までは見通すことができる。定跡や他の棋士が指した過去の棋譜という地図を使えば、かなり遠いところまで迷うことなく正しい経路を進むことができる。もちろんすべてのルートが載っているわけではないが、地図を持っている―即ち定跡や過去の対局内容に精通している者の方が有利であることは間違いない。いわば研究が相当に大きな比重を占めているのが序盤であると言える。研究の量では健志も自信があった。また序盤に関してはハルの存在も大きい。彼はコンピュータを使って序盤の分析を行い、「定跡」と呼べるほど結果が明白で確実な手順が現時点で1218通りあるということを突き止めていた。当然、健志もハルもそのすべてを記憶している。ほかにも定跡とまでは言えないが、ある程度評価が固まっている手順もかなりの数に上り、それも健志は自分のものにしていた。それが、集中力を欠きながらも龍王に大差をつけられずに済んだ理由だった。   

だが健志と龍王の将棋は既に中盤に差し掛かっている。ここからは「地図」はない。また序盤と異なり視界がきわめて限られ、「見える=読める」範囲はせいぜい10数手先までであり、それとて相手がこちらの思惑を読み取り、阻む手を指してくれば、確実に局面を想定できるのは数手先程度になる。木々が密生した深い森の中を行くのに似た状況である。幹や枝、葉に阻まれ先を見通すことはできない。助けとなるものは何もなく、己だけ―己の思考、経験、そして勘だけを頼りに進んで行くしかない。 

今その中盤の視界が利かない森の中で相手の渡部龍王はこちらが道の選択を誤りそうな手を敢えて選んできている。 

健志は相手の狙いを見抜こうと読みの深度を高める。どんな仕掛けを行く先々に用意しているのか。相手が1手指すごとに慎重に時間をかけ意図を推し量ると同時にその意図を打ち消す手順も発見しなければならない。それは相手に先行を許した者が負わねばならない負債である。幸い健志はそういう展開が苦手ではなかった。できれば自分がイニシアチブを持ちたいのは当然だが、相手の手に呼応して進めて行く将棋も苦ではない。 

こちらが予測した手を間にはさみながら龍王はあまり時間を使わず指し手を進める。それに対し健志は時間を使わざるを得ない。  

徐々に持ち時間が気になってくる。  

「記録用紙を見せていただけますか」   

健志は記録係から、これまでの手順と1手ごとの消費時間が書かれた記録用紙を受け取った。消費時間は健志が3時間10分で、龍王は1時間25分―大きな差ができていた。   

「ありがとうございました」そう言って用紙を記録係に返すと、健志は大きく深呼吸した。 

健志は経験が浅い。まして公開対局など初めての体験だ。おそらく龍王はその点に着目し、序盤から中盤までの戦いでこちらに時間を使わせる作戦を選んだようだ。   

「将棋は総力戦です」と龍王はインタビューで答えたことがある。「序中盤で相手に時間を使わせることもタクティクスの一部として有効な手段であると考えています」。   

決して最善手とは言えない手を敢えて選択しているのも、こちらに考える材料を与え時間を使わせる狙いがあるに違いない。しかも龍王の凄いところは、最善の候補手でなくともリードを維持し続けるだけの有力な手をずっと続けている点だった。健志も相手の穴をどうにか見つけようと必死に読んではいるが、これまでのところ目に見える成果を上げられずにいる。   

このままでは押し切られてしまう。どこかで体を入れ替え、こちらから攻勢に転じなければだめだ。健志は少しずつ開き始めた盤上の形勢に、初めて焦りに似た感情を覚えた。相手が主導権を握り、こちらはそれに追随して行くという連鎖をどこかで断ち切らねばならない。   

だが龍王の指し手に緩みはない。奥行きさえ知れぬ深い思考の森の中で相変わらず淡々と且つ力強い歩みを続けている。しかも最善手を選ぶ頻度が高まってきていた。既に終盤を意識しているのだろうか。 

健志の必死の読みが続く。 

その時だった。龍王の指し手のリズムがほんのわずかだが変わった。駒から指を放す瞬間に躊躇があった。時間にすれば10分の1秒あるかないか…。健志は姿勢をただし、盤面全体を見渡した。   

「やっぱり!」 

健志は心の中で自分に向けて確認の声を発した。それは中盤―視界のきかない森の中を歩き出して少し経った時に健志の脳裏を一瞬だけよぎった局面に似ていた。それは読みとは無関係に、目の前に忽然と現れたかの如く閃いたものだった。はたしてこの深い森の中に、そんな局面が実際に存在し得るのかどうかさえ見当もつかない、無論そこにたどり着く道順(=手順)などまったく分からない―そんな場所だった。 

健志は2時間ほど前に頭の中で見た局面を思い出そうと努力した。今目の前の盤上にある局面とどこが違うか。細部は思い出せなかった。が、重要な部分はまったく同じだ。2時間前、何の脈略もなくその局面が脳の中で閃いた時、健志は自分が有利であると判断した。では、それによく似た目の前の現実の局面はどうなのか。   

「何かがある」棋士としての直観がそう呟く。   

健志は残り少ない時間を使ってその局面の奥へと思考の歩を進めることにした。 

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