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2011年12月

2011年12月23日 (金)

Shogiブレイクムーブ01 【99】

99.

思考が現在を離れる……おそらくそれは今から何十手か先の未来だろう。その未来の局面で相手玉は詰んでいる。健志は自分が「勝った」その局面をもう一度念入りに眺め、しっかりと脳裏に焼き付けると一気に現在に戻る。おそらく龍王も今健志が見てきた局面が—まったく同じではないかもしれないが—出現する蓋然性に気付いたはずだ。或いは読みではなく勘のようなものが働き、自分にとって不利な展開があり得ることを察知したのだろう。それが先ほどの指し手のリズムの微妙な変化の理由に違いない。

ただし今読んだ、健志の勝ちにつながる手順が実現することはないだろう。いつかは断定できないが、龍王は必ずその展開を避ける対策を講じてくる。その対策をどの段階で出してくるか。それが具体的にはどんな手になるのか。或いはタイミングによっては、健志の側に体をかわす余裕が残されておらず、致命的な打撃をもたらす返し技になることもあり得る。

いずれにせよ、そうした局面が出現し得るということを健志が知り、竜王が察知したことは、これからの戦いに影響するはずだ。また今の段階で、この後の展開の選択権は健志に移ったことになる。これまで通り相手に応じて指してゆくことも、方針を変え攻勢に転じることも可能だ。どちらを取るべきか。健志が思考を現局面に戻したのは、他の可能性―今気付いた手順とその結果生じる局面を一種の囮として、勝利に至る別の可能性を探そうと考えたからである。

糸口となる手は既に発見していた。問題はそれが本当に有利に結びつくものかどうかだが、変化が非常に多いその手順は簡単に結論を出すことができない。一つの可能性として詰みに至る手順が存在することを確認できたとはいえ、今はまだ先の見え難い中盤の森の中にいるのも事実である。

健志は残り少なくなった持ち時間の中から20分近くを費やして考えた末、結局攻勢に出るのをやめた。

健志の指し手を見た龍王の表情がわずかに動いた。それからゆっくりと顔を上げると、天井を仰ぎ見た。龍王はその姿勢のままじっと動かない。健志もつられて天井を見る。そこにはステージ特有の大小さまざまな照明灯が吊り下げられている。あの一つでも落ちて当たったら、怪我どころか命を落とすことになりそうだ、などとぼんやりと思いながら視線を下ろしかけた時、龍王と目が合った。健志の中で一瞬笑みが生まれかけたが、龍王は表情を変えることなく視線を盤面に戻して行った。二人の視線が絡み合ったのはまばたき一回分にも満たない瞬間ではあったが健志は理解した―龍王も健志の指し手に戸惑っているんだ。

龍王が身じろぎをし、腰を後ろに移すと両拳を握り、肩巾よりも広めにして床に付ける相撲の立ち合いのような姿勢になって盤をにらみつける。それは龍王が長考に入る時に見せる独特の体勢だった。その直前の健志の手は将棋用語でいう「手渡し」というものだった。敢えて相手に主導権を譲る手と言えばよいか。きわめて高度な技であり、深く正確な読みの裏付けなしには成立しない。その「手渡し」に龍王は闘志をかき立てられたのかもしれない。

残り時間が少なくなった健志は、相手の手番も利用して読みを進めなければならない。だが既に6時間以上、高い集中力を保ち思考し続けてきたせいだろう、健志は自分の思考の「粘性」が強まりつつあるのを感じていた。粘着テープのように粘り付く面の上を前進して行くのに似ていて、思考の一歩ごとに時間がかかるようになる。6時間というのは将棋の対局時間としては決して長い方ではないが、ステージの上という慣れぬ環境で気付かぬうちに力が入っていたのだろう。いつもよりも早く思考の疲労が蓄積していた。

健志は上着のポケットからブドウ糖入りのスポーツ用キャンディを取り出すと、観客に気付かれぬようそっと口に入れた。脳は最も多くのエネルギーを必要とする器官の一つだという。将棋を指す時、その脳は普段に比べていったい何倍ぐらいの稼働率で思考作業を続けているのだろう。小さなキャンディ一つで、その脳が必要とするエネルギーをまかなえるとは思えないが、甘さが口の中に広がるにつれ、思考の粘りが少しやわらいだように感じた。

龍王の手が止まって1時間は経過しただろう。

その間、健志も必死に読み続けていた。勝ちにつながる先ほどの局面以外にもいくつかの有力な展開を発見したが、いずれもそこに至る具体的なルートが確認できない。

健志の場合、手順の裏付けがない「思いつき」と言ってもよいような未来の局面から遡って読むことで現局面へと結び付ける遡行的な読みを身に付けていた。それはハルが開発した将棋学習システムを利用して体得した技術である。

だが今日はその遡行的読みが機能しない。思い浮かぶのがあまりに遠い先の局面であるためか、論理的、必然的な手順が成立しないのだ。現在とその未来の局面を無理に結び付けようとするとそこには恣意的な読みが紛れ込んでくる。龍王クラスの棋士に独りよがりの手は通用しない。そこで現局面から先を予測して行く順行的読みを試みる。それでもやはりこれといった有力な手順は見つからない。健志がそのような読みの循環ループに入り込む回数が徐々に増えてきていた。

龍王が指した。1時間半に及ぶ長考の末の一手だった。

健志の背中を冷たい刃物がそっとなぜて行った。またもや自分の読みになかった手だ。いや厳密に言えば、ほんの少しの間読んだ手だった。だが重視することなく、早々に捨て去った手だ。自分が軽視した手が実は重大な意味を持っていたのか……。

健志は思考のアクセルをさらに踏み込んだ。

しかし、その後にこれといって大きく形勢が傾くような手順は見つからない。なぜ龍王はこの手を選んだのだろう。ほかにもっと有効な手もあるのに……。だが健志にはその答えを探っている余裕はなかった。

「残り10分です。秒読みはどうしますか」

記録係から声がかかった。

「5分から始めてください」

これまでのように幅広く読んでいる時間はない。相手の指し手に直接応対する手だけを考えるのだ。もちろん、これまでに読んであった手順がストックとして頭の中にある。終盤に入れば、「詰み」という明白な目標にたどり着くスピードの勝負になる。

序盤が先人の足跡(定跡)を頼りに進むことも可能な広い平野で、中盤が視界の利かない深い森なら、終盤は底へと下りて行くルートの発見が肝要となる深い谷のようなものだ。確実なルートを如何に早く見つけるかが勝敗を分けることになる。また、序盤や中盤と違い、1手のミスが谷底まで転がり落ちる致命的な結果に結び付く。

瞬く間に5分が過ぎ、秒読みが始まった。

「30秒……」

健志は指し手を決め、「50秒……」という声を聞いてから指した。龍王は顔を下に向けたままだ。手順の微妙な違いで形勢が大きく変わりかねない難しい局面になりつつある。ここで龍王は再び考えるだろうと健志は予想していた。

ところがその予想に反して龍王の指し手は早かった。その手を見た瞬間、健志は喉元で心臓が一度大きく打ったのを感じた。

対局後の龍王のコメント:
「おそらく大沼四段も気付いていたと思いますが、私と彼の読みにはズレがありました。将棋に対する考え方の違いかもしれません。とにかく彼の読み筋を私は予見できず、彼も私の読み筋を予測できなかった。
「そういう状況では自分には見えない決定的な手順を相手はもう見抜いているのかもしれないわけですから、ある意味非常に怖いことです……。ただ彼と私の何が違ったかといえば、私はそうした読みが一致しない戦いをこれまでにたくさん経験してきた点でしょうね。
「勝敗はほんのわずかなことで決したりします。その時の体調や精神状態などもありますが、恐怖に対する耐性というのも少なからず影響します。この対局がまさにそうだったんじゃないでしょうか。彼と私では経験に大きな差がある。自分も怖いが相手も怖いはずだ……私はそう考えたのですが、たぶん大沼四段はそこまで状況を、自分をつきっ離して見ることができなかったんだと思いますよ。
「序盤が平野で、中盤が森、そして終盤は深い谷ですか……。面白い喩えですね。イメージとしては分かります。だけど将棋は勝負ですからね、目的は道を切り拓くことじゃなくて、相手を倒すことですからね。そこんところがちょっと違うような気がします」

対局後の大沼四段のコメント:
「時間の使い方ですか…。そうですね、中盤までに使いすぎたかもしれませんが、それは必要だったからで、時間を気にして踏み込んで読まなかったら、もっとひどい結果になっていたかもしれません。
「結果としてはあの香打ちを軽視していました。気付いてはいたんですが、もっと掘り下げて読むべきでした。それと戦略的判断の差ですね。私は終盤になって、詰ます手順ばかりを考えていましたが、龍王は“勝つための手”ではなく、“負けない手”を考えていたんです。あの香打ちの1手で局面から流動性が失われてしまい、後手が負けない形勢になってしまったんです。言い換えれば、終盤に入りかけたところで、あの一手が将棋を中盤に戻し、しかも後手にとって負けにくい万全の態勢を作り上げたのです。驚きました」

その手は健志の予想をはるかに上回る効果を持っていた。終盤になって「詰み」という目標にどちらが先にたどり着くかというスピードの争いとなるはずだったのが、龍王の手はそうした状況を一変させた。まるで過飽和溶液に衝撃を加えると結晶化するように、盤上に打たれた香車ひとつで局面が中盤のような様相で固化され、しかもそこには鉄壁に守られた後手の玉将と守りの薄い先手玉将とがあった。残り時間が少なくなっていた健志に、その状況から局勢をひっくり返すことはできなかった。

互いに王手をかけることなく勝負が決した。健志が駒台に手を置き、「ありません」と頭を下げた。その時、無意識に強く噛みしめたために唇の下についた歯の跡は3日間消えることがなかった。

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