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2012年4月 4日 (水)

Shogiブレイクムーブ01 【100】

100.

全将連の事務所は電話のベルと人の声が充満していた。

「会長とはまだ連絡がつかないのか」
「自宅の方はどうだ?」
「奥様とは連絡がついたんですが……」
「家にはいないってことか」
「今朝は普通に家を出たそうです」
「事務長、どうします」
「どうするも、こうするも、とにかくまず会長に連絡をとるのが一番だ。手分けして、会長が行きそうな場所をシラミつぶしに当たるんだ」

米原は海辺にいた。

いつも通り自宅を出て電車に乗り新宿に着いた時、ふと海を見たいと思った。山国育ちの自分が妙なことを考えるもんだと思いつつも、勝負が決するのは夕方以降で、それまでは会長の自分がいなくとも対局に支障はない。多少のトラブルなら総立会人に荒井副会長がいる。

新宿で横須賀方面に行く列車に乗り換えた。鎌倉まで1時間余り。そこから、通称「エノデン」と呼ばれる江ノ島電鉄に乗り換え、海沿いを走り、途中の駅で降りた。駅から道路一本を隔てたところに砂浜と道路を仕切るコンクリートの防波堤があった。その上に腰かけ、波打ち際で遊ぶ子供たちや沖合を滑る水上オートバイ、水鳥の群れのように波間に浮かぶサーファーたち、遠く水平線を行く船の影を目で追いながら、取りとめのないことを考えていた。

10歳で親元を離れ、師匠に弟子入りしてから60年近い歳月が流れた。その間、将棋のことを、将棋のことだけを考えて生きてきた。ひたすら強くなろうと必死に努力した。それ以外のことはまったく眼中になかった。それができる環境があった、それがゆるされる時代だった。将棋のプロが社会的ステータスを認められていた。プロ四段になれば、たとえ19や20歳の若さであっても「先生」と呼ばれ、相応の処遇を受けられる。実力にもよるが、収入も同年代の者に比べれば「破格」だった。21歳―プロになって2年目で、米原の年収は一流デパートに務めていた高校時代の友人の5倍を超えていた。

しかも将棋は奥が深い。最近では科学的観点からの分析が進み、将棋の可能な指し手は10の220乗通りあるなどと言われるようになったが、将棋指しは子どものころから将棋の奥深さを体で感じながら生きてきており、自分がとてつもなく大きな世界の一部に組み込まれていることを自覚している。大きい―なにしろこの宇宙を形作っている原子の総数を上回る変化があるというのだから。

当然のことだが人間がありったけの力でぶつかっていって、なお極められない世界でもある。自分はその将棋に生き、活かされてきた。幸いな人生だったと言えるだろう。なによりも自分が好きなこと、才能を認められたことを職業とする幸せがある。どんな人間も認められ、評価され、或いは褒められることは嬉しいものである。将棋では勝ち続ければ―ただ勝てば、そうした評価、名声、社会的地位、収入のすべてを得ることができる。

それも多くの先達が道を切り拓いてくれたおかげだ。自分もその道を広げ、後に引き渡さねばならない。400年前、今の将棋が成立して以来、数多の若者がそうしてきたように、これから将棋を職業と選び、人生のすべてを人格のすべてをそこに投入する覚悟でやって来る者たちのために。

「将棋は永久に解明されることはなく、また棋士という職業もその将棋と同じく未来永劫続くだろう」―若い頃の米原は本気でそう思っていた。しかし現役を退き、こうして全将連の運営を任される立場になり、その責任の重さを痛感しながら、将棋を取り巻く環境を見渡した時、将棋が解明されることはなくとも決して永遠に続くものではなく、ひょっとするとそう遠くない将来に終わりを迎えることさえあるのではないかという不安に駆られるようになっていた。将棋を楽しむ人間が減りやがては極めて希少な存在となって、プロ将棋も衰退する。

それだけは―プロ将棋の消滅だけは是が非でも避けたい。米原にとって、プロ棋界が消えるというのは、己の生涯を、存在を全否定されることに等しい。魚、水無かりせば魚ならず.。棋士、将棋無かりせば棋士ならず、である。おそらく、ほかのプロ棋士たちもその点に関して尋ねれば皆同じ想いを抱くだろう。だが彼らと自分の決定的な違いは「危機感」の有無だ。リーダーは常に最悪を想定しなければならない。まだ危機が具体的な様相を帯びていない今、プロ棋士集団の長という責任の重さがその予兆を看取させる。

プロ将棋が衰退するとしたら、まず棋士が将棋のことだけを考えていられる環境が消滅するだろう。そんな事態が本当にやって来るのか、来るとしたらそれはいつのことになるのか……あと5年、いや少なくとも10年は今と同様、棋士たちが将棋に専念できる環境は続くだろう。だが20年、30年の先、或いは自分が将棋に生きてきたのと同じ60年という年月の後にはどうなるだろう。まったく見当がつかない―いや認めたくないのだ。その頃にはひょっとするとプロ棋士がいなくなっていることを。

今、米原は将棋を日本文化・伝統の一翼を担うものと位置づけ、全将連の先頭に立って様々な活動を展開している。長い歴史を持つ日本固有の文化・伝統としての将棋を後世に引き継ぐのだという決意が、そこには込められている。プロになるということは、紛れもなくその将棋の歴史の一端を担うことでもある。プロ棋士の中に、世間一般から見ればかなり古風な習慣や所作が少なからず見られるのも、棋士たちが意識、無意識にそうした長い歴史、伝統を担っているのだという自負を抱いているからだ。将棋の魅力にはその長い歴史も与かって大きなものがある。

将棋の世界はシンプルである。強いことが偉いことであり、強さは正義であり善である。そのシンプルな価値体系を具現化してきたのが400年前、徳川幕府の下で定められた名人制度である。紆余曲折はあったが昭和になるまで続いた世襲名人制度の下、職業としての将棋は連綿と続いてきたのであり、将棋にかかわる者は皆、名人を頂点とした段位というヒエラルキーによって統率されていた。頂点に立つ名人の権威は絶対的なものであり、同時に名人は単に最強者であるだけでなく、他の将棋指しを支配し、その上に君臨する絶対的権威だった。名人になる者には棋力のみならず政治力、統率力など、将棋以外の資質も自ずと求められた。それは徳川幕府という権力に召し抱えられた将棋指しとしての宿命でもある。

古来、時の権力は「天下無双」を独占してきた。刀をはじめとする武器や武具、馬、或いは書画や各種工芸品、果ては植木や盆栽、庭に置く石でさえも天下一を独り占めすることに貪欲だった。そうした二つとない駿馬や銘木、名石と同様、将軍家に仕える将棋指しは最強であらねばならず、名人は己ひとりが強いだけでなくそうした将棋指しを束ね、将棋所の権威を、ひいては将軍家の威信を保たねばならなかった。そこにはある種の「神格化」が介在した。

将棋の才能だけでいえば、おそらく今も昔も野(や)には優れた素質を持った者が想像以上に多くいるに違いない。かつて情報の伝搬に時間がかかった時代、全国に点在したであろうそうした磨かれざる原石をあまねく拾い集め、将棋所の内側に囲い込むことなど不可能だった。だが才能は時期と環境とモチベーションを得れば自然と育つ。そうした才能が実力を付け、頭角を現してきてからそれを捕捉していたのでは、将棋所の権威を保つことが困難になる。

結局、捕捉し得た範囲で最強水準の者を高弟とし、或いは養子縁組を経て家督と名人継承権を継がせ、品位、人格、政治力などを備えた最強棋士を育て上げたのであり、最強の地位を守るためには時に姑息な手段も用い、また定跡は門外不出として部外者には決して漏らすことはなかった。

そのようにして培われ、守られてきた「名人の権威」の下に連なる将棋を専門とする者たちの力量に対する神話は、名人が強い棋士に冠せられるタイトルへと変化した後も引き継がれ、殊に第二次大戦・太平洋戦争後の将棋界は大きく発展し、「将棋指し」は「棋士」へと変身し、社会的な地位も大きく向上した。それは将棋が新聞という社会的に認知された知的情報伝達手段に掲載され、また棋士に知的能力に優れた者が多いということとが相俟って、知性のゲームとしての将棋のイメージが広まったからでもあった。

だが「知」とは理を信奉する力であり、神格化された名人の権威という不合理とは相容れない部分を持つ。知のゲームというイメージの広まりと共に、名人を頂点とする旧秩序が徐々に崩れ始める。実力名人制が取り入れられ、その新制度の下で初代名人となり永世名人にもなった木村義雄十四世の後、大山康晴十五世、中原誠十六世の時代まではどうにか残っていた名人のカリスマも、その後を継いだ谷河の時代になると色褪せ始めた。それでも谷河の所作には人に見られる(或いは見せつける)美意識が明らかであったが、将棋を合理性のゲームととらえる羽田の登場は将棋の内容も、また将棋に対する棋士の意識をも完全に覆すもので、名人を神聖視する風潮は雲散霧消した。羽田には谷河と違い権威の演出がなく、髪の乱れなども気にせず、ただひたすら盤面に没入するという自然な態であった。羽田の所作の根底にあるのは「勝つこと」であり、有体な言い方をすれば「勝てばいいんだろ」という態度である。どんなに美しくても負ける将棋に価値はない。勝って後、はじめて美を論じることができる。否、羽田には勝利の後も美など眼中になく、その目は既に次の将棋に向けられている。勝負を日常とするプロ棋士の、それがあるべき姿だとでも言いたげに。

勝利を最優先とする姿勢は勝負事のプロに必然なものであり、それを純化させたのが羽田の将棋であり、羽田の考え方だった。「勝負に人格は不要だ」―それは数百年にわたって守られてきた権威付けによる名人の「神格作用」を否定することでもあった。

プロとは観衆を前提としており、観衆とは勝負の帰趨に一喜一憂し、また自分たちには真似すらできない高度な技芸をプロに求めるものである。勢い、勝つという価値がすべてに優先し、その他のことは付随的属性にすぎなくなる。またそれが20世紀を特徴付ける近代化の内実でもある。ボードゲームにおける近代化の実相を、囲碁と将棋の違いはあるが川端康成が著書『名人』の中で描写している。

『名人』は「最後の囲碁名人」と云われた21世本因坊秀哉の引退碁を題材にしたもので、囲碁で「封じ手」を導入した最初の対局としても知られている。それまで、2日以上に及ぶ対局では上手(白)への敬意を表する意味で黒の手で打ち掛けとするのが習慣だった。もちろんそれは勝敗をめぐる競技としての近代プロ囲碁では不公正なことであり、将棋にならって封じ手を採用することになったのだ。

その封じ手について言及した後、ノーベル賞作家はこう書いている。

「総てせせこましい規則ずくめ、芸道の雅懐も廃れ、長上への敬恭も失われ、相互の人格も重んじないかの様な今日の合理主義に、名人は生涯の最後の碁で苦しめられたと言えぬでもなかった。碁の道でも、日本、或いは東洋古来の美風は損なわれて、なにもかも計算と規則である。……芸としての碁の品や味を思うゆとりもなくなって来る」

だが今や川端が嘆いた近代合理主義の優勢は当然となり、芸道の雅懐も長上への敬恭も人格の尊重も、盤上から消えて久しい。と同時に、アマチュアに対するプロの謂われなき優位も雲散霧消し、制度上名人に挑戦できるプロと、永劫挑戦のかなわぬアマとの力の境界は事実上消滅した。

全将連所属の棋士は現存する将棋指しの中で最強の者たちばかりでなければならず、それが将棋を指し、その棋譜を新聞に掲載する棋士という職業の根幹である。最強の者たち同士の棋譜だからこそ価値があるので、全将連のプロたちは他の者に負けることは許されない。米原が若手であった頃は、誰もがそう考え、実際プロは負けなかった。

だが今プロの下位者をしのぐアマチュアが存在する。その内の少なからぬ指し手が、奨励会にかつて所属していたものの年齢制限の規定によって退会を余儀なくされ、プロとなることを断念した者たちであるのもある種のアイロニーであろう。プロではないが、だからといってアマチュアと呼ぶとき一瞬ためらうような者たち―その中から自力でプロに、少なくとも下位に属すプロに匹敵する棋力の者が少なからず現われてきた。奨励会からプロに上がれるのは年に4人という枠がある。また一定年齢までに、所定の段位に上がれなければ強制的に退会させられる。だが世の才能すべてが早熟タイプとは限らず、中には晩成型の才能もあるわけで、ただ現在の全将連の育成システムはそうした者たちをふるい落とすことしかできない。すべてではないが、プロとアマの差を埋めた原因に奨励会制度が含まれるのは間違いない。つまり、外堀を埋める土のいくばくかを自分たちの手で運び込んだことになる。

さらにコンピューター・テクノロジーの発達により生まれてきた勢力がある。その急先鋒に位置するのが、今日、羽田名人と戦っているハルである。奨励会に入会経験がないことは無論のこと、プロ棋士の指導さえ受けたことすらなく登場した才能であり、その実力は測り知れぬ不気味さを感じさせるものがある。CASSAのもう一人の代表で、曲がりなりにも奨励会を経てプロになった大沼四段はハルにまったく歯が立たないという噂を耳にしたこともある。ハルの登場は、全将連が長年守ってきた奨励会という育成制度の絶対性を突き崩す可能性がある。ハルほどの力はなくとも、たとえば数人でもハルが用いた方法で力を付け、プロ四段に匹敵する実力を持つようになればプロ制度は抜本的見直しを求められることになるだろう。

今回のCASSAとの対抗戦を米原が承諾した背景には、羽田や渡部といった全将連を代表する超一流棋士であれば、大沼健志や庄村陣基は無論のこと、ハルをも鎧袖一触とばかりに蹴散らしてくれるだろうとの期待があったからだ。その期待は自分が庄村陣基と戦ったときに得た感触に基づいている。あの程度なら羽田や渡部の敵ではない―そして、今たたくことで今後暫くは相手から挑戦の意欲と大義を奪うことができる。それは組織の保全を考えねばならない立場として自然な発想である。だがその思惑は、先日の大沼-渡部戦後に渡部龍王自身から聞かされた言葉で大きく揺らぐことになった。

「相手の玉を詰ますという、将棋本来の勝負であったらどちらが勝っていたか分かりません。私の読みではわずかですが、向こうの方が速かったように思えます。だけど私は勝つよりも負けないことを優先したのです。もちろんそれは将棋の戦い方として間違ったことでもないですし、まして奇策でも卑怯な作戦でもない。ただ……」

そう言って言葉を呑んだときの表情が、攻め将棋で知られた渡部龍王の残念と負かした相手の手強さを物語っていた。ハルはその大沼四段よりも強いという。羽田名人といえど、ハルに勝つのは容易ではないかもしれない。

「米原先生…、将棋の米原先生ですよね」

声に振り向くと三十歳前後だろうか、日焼けした肌がこの辺りの海辺の住人であることをうかがわせる青年が立っていた。実は新宿から列車に乗り、ここにたどり着くまでの間、彼を将棋の米原と認識した様子を見せた者が一人もおらず、それが将棋の認知度が落ちている証左のように感じられ若干気の落ちこむのを覚えていただけに、そうやって声をかけられたことが雲間から差してきた陽光のようで気分が明るくなるのを感じた。

「はい、米原です」
「あ、やっぱり。先ほどから、米原先生に似ている方だなと思って見てたんですが、ご本人でしたか」

青年はそう言うと大きく微笑み、自分も将棋を指すこと、小さなIT関連の会社を経営していて社員も全員将棋を知っているなどと身の上をひとしきり話した後、

「ところで先生、今日みたいな日にこんなところで何をなさってるんですか」

ハルと羽田名人の対局を踏まえての質問だろう。

「ちょっとした気分転換ですよ」

米原は当たり障りのない答えでお茶を濁した。

「そうですか。まあ、組織の先頭に立つっていうのは大変ですからね」青年は自分の境涯を思ってか、そう言って微笑んでから急に真顔になり、「そうだ! 先生、今あの対局がどうなってるか、ひょうっとしてご存知ないんじゃないですか」
「え、はい」

その返事に、青年は米原の隣に断りもせず腰を下ろすと、ショルダーバッグから小さなポータブル型のパソコンを取り出した。スイッチを入れ、少し間をおいてからキーボードを操作する。米原は黙ってその様子を眺めていた。操作を終えた青年が少しの間パソコンを見つめてから、米原の目の前に差し出した。

「今の局面です」

老いたりといえど、引退したとはいえど、米原もプロである。パソコンの液晶画面に映し出された局面を見た瞬間すべてを理解した。

規定で後手と決められていた羽田名人が先手を、ハルが後手を指していた。

【続く】
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コメント

素晴らしい文描きですね。特に、100話は、人の価値観や将棋指しの苦悩、幸せと真理の葛藤など道徳的で優れた内容だと思いました。
川端の文の使い方に作者の知性を感じます。

投稿: | 2012年4月11日 (水) 16時37分

私たちはいつまでも続きを待ってます。(;ω;)

投稿: yosomimi | 2012年6月30日 (土) 08時49分

コメントをいただきましてありがとうございます。

ただ今きわめて個人的な事情で、こちらの執筆が滞って
おりますが、秋(10月ごろ)には再開できると思います。
暫く間があきますが、ご了承くださいませ。

Jack

投稿: Jack | 2012年7月12日 (木) 12時01分

会長,亡くなっちゃいましたね。
賛否両論噴出するような強いリーダーでした。
今後はこの物語の中で活躍してほしいと思います。

投稿: yosomimi | 2013年1月 6日 (日) 11時29分

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