【Fiction】

2012年4月 4日 (水)

Shogiブレイクムーブ01 【100】

100.

全将連の事務所は電話のベルと人の声が充満していた。

「会長とはまだ連絡がつかないのか」
「自宅の方はどうだ?」
「奥様とは連絡がついたんですが……」
「家にはいないってことか」
「今朝は普通に家を出たそうです」
「事務長、どうします」
「どうするも、こうするも、とにかくまず会長に連絡をとるのが一番だ。手分けして、会長が行きそうな場所をシラミつぶしに当たるんだ」

米原は海辺にいた。

いつも通り自宅を出て電車に乗り新宿に着いた時、ふと海を見たいと思った。山国育ちの自分が妙なことを考えるもんだと思いつつも、勝負が決するのは夕方以降で、それまでは会長の自分がいなくとも対局に支障はない。多少のトラブルなら総立会人に荒井副会長がいる。

新宿で横須賀方面に行く列車に乗り換えた。鎌倉まで1時間余り。そこから、通称「エノデン」と呼ばれる江ノ島電鉄に乗り換え、海沿いを走り、途中の駅で降りた。駅から道路一本を隔てたところに砂浜と道路を仕切るコンクリートの防波堤があった。その上に腰かけ、波打ち際で遊ぶ子供たちや沖合を滑る水上オートバイ、水鳥の群れのように波間に浮かぶサーファーたち、遠く水平線を行く船の影を目で追いながら、取りとめのないことを考えていた。

10歳で親元を離れ、師匠に弟子入りしてから60年近い歳月が流れた。その間、将棋のことを、将棋のことだけを考えて生きてきた。ひたすら強くなろうと必死に努力した。それ以外のことはまったく眼中になかった。それができる環境があった、それがゆるされる時代だった。将棋のプロが社会的ステータスを認められていた。プロ四段になれば、たとえ19や20歳の若さであっても「先生」と呼ばれ、相応の処遇を受けられる。実力にもよるが、収入も同年代の者に比べれば「破格」だった。21歳―プロになって2年目で、米原の年収は一流デパートに務めていた高校時代の友人の5倍を超えていた。

しかも将棋は奥が深い。最近では科学的観点からの分析が進み、将棋の可能な指し手は10の220乗通りあるなどと言われるようになったが、将棋指しは子どものころから将棋の奥深さを体で感じながら生きてきており、自分がとてつもなく大きな世界の一部に組み込まれていることを自覚している。大きい―なにしろこの宇宙を形作っている原子の総数を上回る変化があるというのだから。

当然のことだが人間がありったけの力でぶつかっていって、なお極められない世界でもある。自分はその将棋に生き、活かされてきた。幸いな人生だったと言えるだろう。なによりも自分が好きなこと、才能を認められたことを職業とする幸せがある。どんな人間も認められ、評価され、或いは褒められることは嬉しいものである。将棋では勝ち続ければ―ただ勝てば、そうした評価、名声、社会的地位、収入のすべてを得ることができる。

それも多くの先達が道を切り拓いてくれたおかげだ。自分もその道を広げ、後に引き渡さねばならない。400年前、今の将棋が成立して以来、数多の若者がそうしてきたように、これから将棋を職業と選び、人生のすべてを人格のすべてをそこに投入する覚悟でやって来る者たちのために。

「将棋は永久に解明されることはなく、また棋士という職業もその将棋と同じく未来永劫続くだろう」―若い頃の米原は本気でそう思っていた。しかし現役を退き、こうして全将連の運営を任される立場になり、その責任の重さを痛感しながら、将棋を取り巻く環境を見渡した時、将棋が解明されることはなくとも決して永遠に続くものではなく、ひょっとするとそう遠くない将来に終わりを迎えることさえあるのではないかという不安に駆られるようになっていた。将棋を楽しむ人間が減りやがては極めて希少な存在となって、プロ将棋も衰退する。

それだけは―プロ将棋の消滅だけは是が非でも避けたい。米原にとって、プロ棋界が消えるというのは、己の生涯を、存在を全否定されることに等しい。魚、水無かりせば魚ならず.。棋士、将棋無かりせば棋士ならず、である。おそらく、ほかのプロ棋士たちもその点に関して尋ねれば皆同じ想いを抱くだろう。だが彼らと自分の決定的な違いは「危機感」の有無だ。リーダーは常に最悪を想定しなければならない。まだ危機が具体的な様相を帯びていない今、プロ棋士集団の長という責任の重さがその予兆を看取させる。

プロ将棋が衰退するとしたら、まず棋士が将棋のことだけを考えていられる環境が消滅するだろう。そんな事態が本当にやって来るのか、来るとしたらそれはいつのことになるのか……あと5年、いや少なくとも10年は今と同様、棋士たちが将棋に専念できる環境は続くだろう。だが20年、30年の先、或いは自分が将棋に生きてきたのと同じ60年という年月の後にはどうなるだろう。まったく見当がつかない―いや認めたくないのだ。その頃にはひょっとするとプロ棋士がいなくなっていることを。

今、米原は将棋を日本文化・伝統の一翼を担うものと位置づけ、全将連の先頭に立って様々な活動を展開している。長い歴史を持つ日本固有の文化・伝統としての将棋を後世に引き継ぐのだという決意が、そこには込められている。プロになるということは、紛れもなくその将棋の歴史の一端を担うことでもある。プロ棋士の中に、世間一般から見ればかなり古風な習慣や所作が少なからず見られるのも、棋士たちが意識、無意識にそうした長い歴史、伝統を担っているのだという自負を抱いているからだ。将棋の魅力にはその長い歴史も与かって大きなものがある。

将棋の世界はシンプルである。強いことが偉いことであり、強さは正義であり善である。そのシンプルな価値体系を具現化してきたのが400年前、徳川幕府の下で定められた名人制度である。紆余曲折はあったが昭和になるまで続いた世襲名人制度の下、職業としての将棋は連綿と続いてきたのであり、将棋にかかわる者は皆、名人を頂点とした段位というヒエラルキーによって統率されていた。頂点に立つ名人の権威は絶対的なものであり、同時に名人は単に最強者であるだけでなく、他の将棋指しを支配し、その上に君臨する絶対的権威だった。名人になる者には棋力のみならず政治力、統率力など、将棋以外の資質も自ずと求められた。それは徳川幕府という権力に召し抱えられた将棋指しとしての宿命でもある。

古来、時の権力は「天下無双」を独占してきた。刀をはじめとする武器や武具、馬、或いは書画や各種工芸品、果ては植木や盆栽、庭に置く石でさえも天下一を独り占めすることに貪欲だった。そうした二つとない駿馬や銘木、名石と同様、将軍家に仕える将棋指しは最強であらねばならず、名人は己ひとりが強いだけでなくそうした将棋指しを束ね、将棋所の権威を、ひいては将軍家の威信を保たねばならなかった。そこにはある種の「神格化」が介在した。

将棋の才能だけでいえば、おそらく今も昔も野(や)には優れた素質を持った者が想像以上に多くいるに違いない。かつて情報の伝搬に時間がかかった時代、全国に点在したであろうそうした磨かれざる原石をあまねく拾い集め、将棋所の内側に囲い込むことなど不可能だった。だが才能は時期と環境とモチベーションを得れば自然と育つ。そうした才能が実力を付け、頭角を現してきてからそれを捕捉していたのでは、将棋所の権威を保つことが困難になる。

結局、捕捉し得た範囲で最強水準の者を高弟とし、或いは養子縁組を経て家督と名人継承権を継がせ、品位、人格、政治力などを備えた最強棋士を育て上げたのであり、最強の地位を守るためには時に姑息な手段も用い、また定跡は門外不出として部外者には決して漏らすことはなかった。

そのようにして培われ、守られてきた「名人の権威」の下に連なる将棋を専門とする者たちの力量に対する神話は、名人が強い棋士に冠せられるタイトルへと変化した後も引き継がれ、殊に第二次大戦・太平洋戦争後の将棋界は大きく発展し、「将棋指し」は「棋士」へと変身し、社会的な地位も大きく向上した。それは将棋が新聞という社会的に認知された知的情報伝達手段に掲載され、また棋士に知的能力に優れた者が多いということとが相俟って、知性のゲームとしての将棋のイメージが広まったからでもあった。

だが「知」とは理を信奉する力であり、神格化された名人の権威という不合理とは相容れない部分を持つ。知のゲームというイメージの広まりと共に、名人を頂点とする旧秩序が徐々に崩れ始める。実力名人制が取り入れられ、その新制度の下で初代名人となり永世名人にもなった木村義雄十四世の後、大山康晴十五世、中原誠十六世の時代まではどうにか残っていた名人のカリスマも、その後を継いだ谷河の時代になると色褪せ始めた。それでも谷河の所作には人に見られる(或いは見せつける)美意識が明らかであったが、将棋を合理性のゲームととらえる羽田の登場は将棋の内容も、また将棋に対する棋士の意識をも完全に覆すもので、名人を神聖視する風潮は雲散霧消した。羽田には谷河と違い権威の演出がなく、髪の乱れなども気にせず、ただひたすら盤面に没入するという自然な態であった。羽田の所作の根底にあるのは「勝つこと」であり、有体な言い方をすれば「勝てばいいんだろ」という態度である。どんなに美しくても負ける将棋に価値はない。勝って後、はじめて美を論じることができる。否、羽田には勝利の後も美など眼中になく、その目は既に次の将棋に向けられている。勝負を日常とするプロ棋士の、それがあるべき姿だとでも言いたげに。

勝利を最優先とする姿勢は勝負事のプロに必然なものであり、それを純化させたのが羽田の将棋であり、羽田の考え方だった。「勝負に人格は不要だ」―それは数百年にわたって守られてきた権威付けによる名人の「神格作用」を否定することでもあった。

プロとは観衆を前提としており、観衆とは勝負の帰趨に一喜一憂し、また自分たちには真似すらできない高度な技芸をプロに求めるものである。勢い、勝つという価値がすべてに優先し、その他のことは付随的属性にすぎなくなる。またそれが20世紀を特徴付ける近代化の内実でもある。ボードゲームにおける近代化の実相を、囲碁と将棋の違いはあるが川端康成が著書『名人』の中で描写している。

『名人』は「最後の囲碁名人」と云われた21世本因坊秀哉の引退碁を題材にしたもので、囲碁で「封じ手」を導入した最初の対局としても知られている。それまで、2日以上に及ぶ対局では上手(白)への敬意を表する意味で黒の手で打ち掛けとするのが習慣だった。もちろんそれは勝敗をめぐる競技としての近代プロ囲碁では不公正なことであり、将棋にならって封じ手を採用することになったのだ。

その封じ手について言及した後、ノーベル賞作家はこう書いている。

「総てせせこましい規則ずくめ、芸道の雅懐も廃れ、長上への敬恭も失われ、相互の人格も重んじないかの様な今日の合理主義に、名人は生涯の最後の碁で苦しめられたと言えぬでもなかった。碁の道でも、日本、或いは東洋古来の美風は損なわれて、なにもかも計算と規則である。……芸としての碁の品や味を思うゆとりもなくなって来る」

だが今や川端が嘆いた近代合理主義の優勢は当然となり、芸道の雅懐も長上への敬恭も人格の尊重も、盤上から消えて久しい。と同時に、アマチュアに対するプロの謂われなき優位も雲散霧消し、制度上名人に挑戦できるプロと、永劫挑戦のかなわぬアマとの力の境界は事実上消滅した。

全将連所属の棋士は現存する将棋指しの中で最強の者たちばかりでなければならず、それが将棋を指し、その棋譜を新聞に掲載する棋士という職業の根幹である。最強の者たち同士の棋譜だからこそ価値があるので、全将連のプロたちは他の者に負けることは許されない。米原が若手であった頃は、誰もがそう考え、実際プロは負けなかった。

だが今プロの下位者をしのぐアマチュアが存在する。その内の少なからぬ指し手が、奨励会にかつて所属していたものの年齢制限の規定によって退会を余儀なくされ、プロとなることを断念した者たちであるのもある種のアイロニーであろう。プロではないが、だからといってアマチュアと呼ぶとき一瞬ためらうような者たち―その中から自力でプロに、少なくとも下位に属すプロに匹敵する棋力の者が少なからず現われてきた。奨励会からプロに上がれるのは年に4人という枠がある。また一定年齢までに、所定の段位に上がれなければ強制的に退会させられる。だが世の才能すべてが早熟タイプとは限らず、中には晩成型の才能もあるわけで、ただ現在の全将連の育成システムはそうした者たちをふるい落とすことしかできない。すべてではないが、プロとアマの差を埋めた原因に奨励会制度が含まれるのは間違いない。つまり、外堀を埋める土のいくばくかを自分たちの手で運び込んだことになる。

さらにコンピューター・テクノロジーの発達により生まれてきた勢力がある。その急先鋒に位置するのが、今日、羽田名人と戦っているハルである。奨励会に入会経験がないことは無論のこと、プロ棋士の指導さえ受けたことすらなく登場した才能であり、その実力は測り知れぬ不気味さを感じさせるものがある。CASSAのもう一人の代表で、曲がりなりにも奨励会を経てプロになった大沼四段はハルにまったく歯が立たないという噂を耳にしたこともある。ハルの登場は、全将連が長年守ってきた奨励会という育成制度の絶対性を突き崩す可能性がある。ハルほどの力はなくとも、たとえば数人でもハルが用いた方法で力を付け、プロ四段に匹敵する実力を持つようになればプロ制度は抜本的見直しを求められることになるだろう。

今回のCASSAとの対抗戦を米原が承諾した背景には、羽田や渡部といった全将連を代表する超一流棋士であれば、大沼健志や庄村陣基は無論のこと、ハルをも鎧袖一触とばかりに蹴散らしてくれるだろうとの期待があったからだ。その期待は自分が庄村陣基と戦ったときに得た感触に基づいている。あの程度なら羽田や渡部の敵ではない―そして、今たたくことで今後暫くは相手から挑戦の意欲と大義を奪うことができる。それは組織の保全を考えねばならない立場として自然な発想である。だがその思惑は、先日の大沼-渡部戦後に渡部龍王自身から聞かされた言葉で大きく揺らぐことになった。

「相手の玉を詰ますという、将棋本来の勝負であったらどちらが勝っていたか分かりません。私の読みではわずかですが、向こうの方が速かったように思えます。だけど私は勝つよりも負けないことを優先したのです。もちろんそれは将棋の戦い方として間違ったことでもないですし、まして奇策でも卑怯な作戦でもない。ただ……」

そう言って言葉を呑んだときの表情が、攻め将棋で知られた渡部龍王の残念と負かした相手の手強さを物語っていた。ハルはその大沼四段よりも強いという。羽田名人といえど、ハルに勝つのは容易ではないかもしれない。

「米原先生…、将棋の米原先生ですよね」

声に振り向くと三十歳前後だろうか、日焼けした肌がこの辺りの海辺の住人であることをうかがわせる青年が立っていた。実は新宿から列車に乗り、ここにたどり着くまでの間、彼を将棋の米原と認識した様子を見せた者が一人もおらず、それが将棋の認知度が落ちている証左のように感じられ若干気の落ちこむのを覚えていただけに、そうやって声をかけられたことが雲間から差してきた陽光のようで気分が明るくなるのを感じた。

「はい、米原です」
「あ、やっぱり。先ほどから、米原先生に似ている方だなと思って見てたんですが、ご本人でしたか」

青年はそう言うと大きく微笑み、自分も将棋を指すこと、小さなIT関連の会社を経営していて社員も全員将棋を知っているなどと身の上をひとしきり話した後、

「ところで先生、今日みたいな日にこんなところで何をなさってるんですか」

ハルと羽田名人の対局を踏まえての質問だろう。

「ちょっとした気分転換ですよ」

米原は当たり障りのない答えでお茶を濁した。

「そうですか。まあ、組織の先頭に立つっていうのは大変ですからね」青年は自分の境涯を思ってか、そう言って微笑んでから急に真顔になり、「そうだ! 先生、今あの対局がどうなってるか、ひょうっとしてご存知ないんじゃないですか」
「え、はい」

その返事に、青年は米原の隣に断りもせず腰を下ろすと、ショルダーバッグから小さなポータブル型のパソコンを取り出した。スイッチを入れ、少し間をおいてからキーボードを操作する。米原は黙ってその様子を眺めていた。操作を終えた青年が少しの間パソコンを見つめてから、米原の目の前に差し出した。

「今の局面です」

老いたりといえど、引退したとはいえど、米原もプロである。パソコンの液晶画面に映し出された局面を見た瞬間すべてを理解した。

規定で後手と決められていた羽田名人が先手を、ハルが後手を指していた。

【続く】
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, 2012, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年12月23日 (金)

Shogiブレイクムーブ01 【99】

99.

思考が現在を離れる……おそらくそれは今から何十手か先の未来だろう。その未来の局面で相手玉は詰んでいる。健志は自分が「勝った」その局面をもう一度念入りに眺め、しっかりと脳裏に焼き付けると一気に現在に戻る。おそらく龍王も今健志が見てきた局面が—まったく同じではないかもしれないが—出現する蓋然性に気付いたはずだ。或いは読みではなく勘のようなものが働き、自分にとって不利な展開があり得ることを察知したのだろう。それが先ほどの指し手のリズムの微妙な変化の理由に違いない。

ただし今読んだ、健志の勝ちにつながる手順が実現することはないだろう。いつかは断定できないが、龍王は必ずその展開を避ける対策を講じてくる。その対策をどの段階で出してくるか。それが具体的にはどんな手になるのか。或いはタイミングによっては、健志の側に体をかわす余裕が残されておらず、致命的な打撃をもたらす返し技になることもあり得る。

いずれにせよ、そうした局面が出現し得るということを健志が知り、竜王が察知したことは、これからの戦いに影響するはずだ。また今の段階で、この後の展開の選択権は健志に移ったことになる。これまで通り相手に応じて指してゆくことも、方針を変え攻勢に転じることも可能だ。どちらを取るべきか。健志が思考を現局面に戻したのは、他の可能性―今気付いた手順とその結果生じる局面を一種の囮として、勝利に至る別の可能性を探そうと考えたからである。

糸口となる手は既に発見していた。問題はそれが本当に有利に結びつくものかどうかだが、変化が非常に多いその手順は簡単に結論を出すことができない。一つの可能性として詰みに至る手順が存在することを確認できたとはいえ、今はまだ先の見え難い中盤の森の中にいるのも事実である。

健志は残り少なくなった持ち時間の中から20分近くを費やして考えた末、結局攻勢に出るのをやめた。

健志の指し手を見た龍王の表情がわずかに動いた。それからゆっくりと顔を上げると、天井を仰ぎ見た。龍王はその姿勢のままじっと動かない。健志もつられて天井を見る。そこにはステージ特有の大小さまざまな照明灯が吊り下げられている。あの一つでも落ちて当たったら、怪我どころか命を落とすことになりそうだ、などとぼんやりと思いながら視線を下ろしかけた時、龍王と目が合った。健志の中で一瞬笑みが生まれかけたが、龍王は表情を変えることなく視線を盤面に戻して行った。二人の視線が絡み合ったのはまばたき一回分にも満たない瞬間ではあったが健志は理解した―龍王も健志の指し手に戸惑っているんだ。

龍王が身じろぎをし、腰を後ろに移すと両拳を握り、肩巾よりも広めにして床に付ける相撲の立ち合いのような姿勢になって盤をにらみつける。それは龍王が長考に入る時に見せる独特の体勢だった。その直前の健志の手は将棋用語でいう「手渡し」というものだった。敢えて相手に主導権を譲る手と言えばよいか。きわめて高度な技であり、深く正確な読みの裏付けなしには成立しない。その「手渡し」に龍王は闘志をかき立てられたのかもしれない。

残り時間が少なくなった健志は、相手の手番も利用して読みを進めなければならない。だが既に6時間以上、高い集中力を保ち思考し続けてきたせいだろう、健志は自分の思考の「粘性」が強まりつつあるのを感じていた。粘着テープのように粘り付く面の上を前進して行くのに似ていて、思考の一歩ごとに時間がかかるようになる。6時間というのは将棋の対局時間としては決して長い方ではないが、ステージの上という慣れぬ環境で気付かぬうちに力が入っていたのだろう。いつもよりも早く思考の疲労が蓄積していた。

健志は上着のポケットからブドウ糖入りのスポーツ用キャンディを取り出すと、観客に気付かれぬようそっと口に入れた。脳は最も多くのエネルギーを必要とする器官の一つだという。将棋を指す時、その脳は普段に比べていったい何倍ぐらいの稼働率で思考作業を続けているのだろう。小さなキャンディ一つで、その脳が必要とするエネルギーをまかなえるとは思えないが、甘さが口の中に広がるにつれ、思考の粘りが少しやわらいだように感じた。

龍王の手が止まって1時間は経過しただろう。

その間、健志も必死に読み続けていた。勝ちにつながる先ほどの局面以外にもいくつかの有力な展開を発見したが、いずれもそこに至る具体的なルートが確認できない。

健志の場合、手順の裏付けがない「思いつき」と言ってもよいような未来の局面から遡って読むことで現局面へと結び付ける遡行的な読みを身に付けていた。それはハルが開発した将棋学習システムを利用して体得した技術である。

だが今日はその遡行的読みが機能しない。思い浮かぶのがあまりに遠い先の局面であるためか、論理的、必然的な手順が成立しないのだ。現在とその未来の局面を無理に結び付けようとするとそこには恣意的な読みが紛れ込んでくる。龍王クラスの棋士に独りよがりの手は通用しない。そこで現局面から先を予測して行く順行的読みを試みる。それでもやはりこれといった有力な手順は見つからない。健志がそのような読みの循環ループに入り込む回数が徐々に増えてきていた。

龍王が指した。1時間半に及ぶ長考の末の一手だった。

健志の背中を冷たい刃物がそっとなぜて行った。またもや自分の読みになかった手だ。いや厳密に言えば、ほんの少しの間読んだ手だった。だが重視することなく、早々に捨て去った手だ。自分が軽視した手が実は重大な意味を持っていたのか……。

健志は思考のアクセルをさらに踏み込んだ。

しかし、その後にこれといって大きく形勢が傾くような手順は見つからない。なぜ龍王はこの手を選んだのだろう。ほかにもっと有効な手もあるのに……。だが健志にはその答えを探っている余裕はなかった。

「残り10分です。秒読みはどうしますか」

記録係から声がかかった。

「5分から始めてください」

これまでのように幅広く読んでいる時間はない。相手の指し手に直接応対する手だけを考えるのだ。もちろん、これまでに読んであった手順がストックとして頭の中にある。終盤に入れば、「詰み」という明白な目標にたどり着くスピードの勝負になる。

序盤が先人の足跡(定跡)を頼りに進むことも可能な広い平野で、中盤が視界の利かない深い森なら、終盤は底へと下りて行くルートの発見が肝要となる深い谷のようなものだ。確実なルートを如何に早く見つけるかが勝敗を分けることになる。また、序盤や中盤と違い、1手のミスが谷底まで転がり落ちる致命的な結果に結び付く。

瞬く間に5分が過ぎ、秒読みが始まった。

「30秒……」

健志は指し手を決め、「50秒……」という声を聞いてから指した。龍王は顔を下に向けたままだ。手順の微妙な違いで形勢が大きく変わりかねない難しい局面になりつつある。ここで龍王は再び考えるだろうと健志は予想していた。

ところがその予想に反して龍王の指し手は早かった。その手を見た瞬間、健志は喉元で心臓が一度大きく打ったのを感じた。

対局後の龍王のコメント:
「おそらく大沼四段も気付いていたと思いますが、私と彼の読みにはズレがありました。将棋に対する考え方の違いかもしれません。とにかく彼の読み筋を私は予見できず、彼も私の読み筋を予測できなかった。
「そういう状況では自分には見えない決定的な手順を相手はもう見抜いているのかもしれないわけですから、ある意味非常に怖いことです……。ただ彼と私の何が違ったかといえば、私はそうした読みが一致しない戦いをこれまでにたくさん経験してきた点でしょうね。
「勝敗はほんのわずかなことで決したりします。その時の体調や精神状態などもありますが、恐怖に対する耐性というのも少なからず影響します。この対局がまさにそうだったんじゃないでしょうか。彼と私では経験に大きな差がある。自分も怖いが相手も怖いはずだ……私はそう考えたのですが、たぶん大沼四段はそこまで状況を、自分をつきっ離して見ることができなかったんだと思いますよ。
「序盤が平野で、中盤が森、そして終盤は深い谷ですか……。面白い喩えですね。イメージとしては分かります。だけど将棋は勝負ですからね、目的は道を切り拓くことじゃなくて、相手を倒すことですからね。そこんところがちょっと違うような気がします」

対局後の大沼四段のコメント:
「時間の使い方ですか…。そうですね、中盤までに使いすぎたかもしれませんが、それは必要だったからで、時間を気にして踏み込んで読まなかったら、もっとひどい結果になっていたかもしれません。
「結果としてはあの香打ちを軽視していました。気付いてはいたんですが、もっと掘り下げて読むべきでした。それと戦略的判断の差ですね。私は終盤になって、詰ます手順ばかりを考えていましたが、龍王は“勝つための手”ではなく、“負けない手”を考えていたんです。あの香打ちの1手で局面から流動性が失われてしまい、後手が負けない形勢になってしまったんです。言い換えれば、終盤に入りかけたところで、あの一手が将棋を中盤に戻し、しかも後手にとって負けにくい万全の態勢を作り上げたのです。驚きました」

その手は健志の予想をはるかに上回る効果を持っていた。終盤になって「詰み」という目標にどちらが先にたどり着くかというスピードの争いとなるはずだったのが、龍王の手はそうした状況を一変させた。まるで過飽和溶液に衝撃を加えると結晶化するように、盤上に打たれた香車ひとつで局面が中盤のような様相で固化され、しかもそこには鉄壁に守られた後手の玉将と守りの薄い先手玉将とがあった。残り時間が少なくなっていた健志に、その状況から局勢をひっくり返すことはできなかった。

互いに王手をかけることなく勝負が決した。健志が駒台に手を置き、「ありません」と頭を下げた。その時、無意識に強く噛みしめたために唇の下についた歯の跡は3日間消えることがなかった。

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年10月 8日 (土)

Shogiブレイクムーブ01 【98】

98.   

CASSA代表としてこの対抗戦に出ることを表明してからは全将連の棋士としての対局はすべて中止ないし延期の処置がとられたが、それでも健志は既にプロ棋士として15局の将棋を指していた。対戦相手はすべて違い、段位も健志と同じ四段の若手から父親よりも年上の七段まで様々だった。結果は健志の全勝である。  

デビューから15連勝というのは新記録だと聞かされたが、健志は特に嬉しいとも思わなかった。すべてではないが対戦した中には率直に言って、「これでプロか」と思うような非力な者もいて、プロになれば強い相手と次々と対戦できると漠然と期待していた健志には意外であり、拍子抜けのようであり、またある種ショックでもあった。 

対抗戦の話を聞き、CASSA側から出場する決心をした理由に、そうした予想外の状況に直面したことが影響していたのは確かである。もっと強い棋士と戦いたい。持てるすべての力を振り絞ってようやく対抗できるような真の力に接したい。プロになってほんのわずかな時間しか経っていないのに偉そうな口をきくなと言われるかもしれないが、健志の中でその希望は願望へと変わり、やがて抑え難い渇望へと変化し始めていた。   

現在の棋界で最強である3人の棋士と戦える絶好のチャンスだと知った時―今人類に可能な最高度の将棋を指す棋士たちとの対戦だと分かった時、健志は躊躇しなかった。   

今こうして久しぶりに勝負の盤の前に坐り棋界三強の一人と対峙しながら、健志は自分の中の「渇き」が徐々にやわらいでいくのを感じていた。

将棋を指したい、それも強い相手と指したいという思いが脳の中で乾ききった舌のようにひりついていたが、それは遠い昔、将棋を憶えたばかりの頃、学校から帰ると直ぐに将棋盤と駒を用意して、父の帰りを今か今かと待っていた時の心境に似ていなくもない。が、あの時の浮き立つような喜びはなく、もっと喉の渇き同様に生理的な要求或いは苦痛に近かった。   

その苦痛がやわらぎ、会場の雰囲気にも慣れてきたのだろう、健志は自分が思考=読みを自在に操れるようになったのをはっきりと感じ取った。  

「読み」というのは単純に言ってしまえば頭の中に将棋盤を思い浮かべ、その上で駒を動かすことである。だがそれがともすると、本人の意思とは無関係に「動く」ことがある。自分は桂馬を動かそうと思っても頭の中では銀が動いてしまったり、まったく関係のない駒を動かしたりといったことが、特に目の前の局面から遠い先まで読み進めた時などに起こる。 

また、読んだ結果を記憶しておくことも重要なことだが、それもままならなくなることがある。現在の局面において「A」と「B」という2つの選択肢があり、その先常に2つの選択肢が存在するとした場合、10手先まで読めば読む手の総数は1024手になる。その中で自分にとって最も有利な手や不利な手を覚えておかなければならず、実際には一つの局面で通常選択肢は2~4つはあるため、読む手数ははるかに多くなる。そんな状況で一度読んだ手を二度も三度も繰り返し読んでいたのでは持ち時間は直ぐになくなってしまう。   

集中力の欠如はそうした読みの繰り返しという形でも現れる。 

龍王の指した手を見た健志は心の中で小首を傾げた。予想していた手の中では最も評価が低い手だったからだ。もちろん、形勢を損ねてしまう「悪手」というのではないが、もっと龍王側にとって大きな有利に結び付く手があるのになぜ敢えてその手を選んだのか…。健志は慎重に読みを入れてから応手を指した。 

「あなたの意図は分かっていますよ」 

それはそんなメッセージを相手に伝える手だった。健志が駒から指を離す瞬間、渡部龍王がこちらを見たのが分かった。露骨な返答にカチンときたのかもしれないな、と健志は少し愉快な気持ちになった。これで龍王が「怒って」くれれば、健志が望む脳の中が痺れてくるようなきつく激しい戦いに展開してゆく可能性がある。   

「君が勘付いたのは分かった。それじゃこれはどうかな?」  

数手前から局面の主導権を握っている龍王が若干方針を修正した手を指してきた。それもまた、健志が一番には考えなかった手だった。過去の棋譜を調べた時には分からなかったがそれも龍王の棋風なのだろうか。或いは終盤戦に絶対的自信を持っているからこその作戦だろうか。   

将棋の序盤は見晴らしのきく広い平原を行くのに似ている―ある程度先までは見通すことができる。定跡や他の棋士が指した過去の棋譜という地図を使えば、かなり遠いところまで迷うことなく正しい経路を進むことができる。もちろんすべてのルートが載っているわけではないが、地図を持っている―即ち定跡や過去の対局内容に精通している者の方が有利であることは間違いない。いわば研究が相当に大きな比重を占めているのが序盤であると言える。研究の量では健志も自信があった。また序盤に関してはハルの存在も大きい。彼はコンピュータを使って序盤の分析を行い、「定跡」と呼べるほど結果が明白で確実な手順が現時点で1218通りあるということを突き止めていた。当然、健志もハルもそのすべてを記憶している。ほかにも定跡とまでは言えないが、ある程度評価が固まっている手順もかなりの数に上り、それも健志は自分のものにしていた。それが、集中力を欠きながらも龍王に大差をつけられずに済んだ理由だった。   

だが健志と龍王の将棋は既に中盤に差し掛かっている。ここからは「地図」はない。また序盤と異なり視界がきわめて限られ、「見える=読める」範囲はせいぜい10数手先までであり、それとて相手がこちらの思惑を読み取り、阻む手を指してくれば、確実に局面を想定できるのは数手先程度になる。木々が密生した深い森の中を行くのに似た状況である。幹や枝、葉に阻まれ先を見通すことはできない。助けとなるものは何もなく、己だけ―己の思考、経験、そして勘だけを頼りに進んで行くしかない。 

今その中盤の視界が利かない森の中で相手の渡部龍王はこちらが道の選択を誤りそうな手を敢えて選んできている。 

健志は相手の狙いを見抜こうと読みの深度を高める。どんな仕掛けを行く先々に用意しているのか。相手が1手指すごとに慎重に時間をかけ意図を推し量ると同時にその意図を打ち消す手順も発見しなければならない。それは相手に先行を許した者が負わねばならない負債である。幸い健志はそういう展開が苦手ではなかった。できれば自分がイニシアチブを持ちたいのは当然だが、相手の手に呼応して進めて行く将棋も苦ではない。 

こちらが予測した手を間にはさみながら龍王はあまり時間を使わず指し手を進める。それに対し健志は時間を使わざるを得ない。  

徐々に持ち時間が気になってくる。  

「記録用紙を見せていただけますか」   

健志は記録係から、これまでの手順と1手ごとの消費時間が書かれた記録用紙を受け取った。消費時間は健志が3時間10分で、龍王は1時間25分―大きな差ができていた。   

「ありがとうございました」そう言って用紙を記録係に返すと、健志は大きく深呼吸した。 

健志は経験が浅い。まして公開対局など初めての体験だ。おそらく龍王はその点に着目し、序盤から中盤までの戦いでこちらに時間を使わせる作戦を選んだようだ。   

「将棋は総力戦です」と龍王はインタビューで答えたことがある。「序中盤で相手に時間を使わせることもタクティクスの一部として有効な手段であると考えています」。   

決して最善手とは言えない手を敢えて選択しているのも、こちらに考える材料を与え時間を使わせる狙いがあるに違いない。しかも龍王の凄いところは、最善の候補手でなくともリードを維持し続けるだけの有力な手をずっと続けている点だった。健志も相手の穴をどうにか見つけようと必死に読んではいるが、これまでのところ目に見える成果を上げられずにいる。   

このままでは押し切られてしまう。どこかで体を入れ替え、こちらから攻勢に転じなければだめだ。健志は少しずつ開き始めた盤上の形勢に、初めて焦りに似た感情を覚えた。相手が主導権を握り、こちらはそれに追随して行くという連鎖をどこかで断ち切らねばならない。   

だが龍王の指し手に緩みはない。奥行きさえ知れぬ深い思考の森の中で相変わらず淡々と且つ力強い歩みを続けている。しかも最善手を選ぶ頻度が高まってきていた。既に終盤を意識しているのだろうか。 

健志の必死の読みが続く。 

その時だった。龍王の指し手のリズムがほんのわずかだが変わった。駒から指を放す瞬間に躊躇があった。時間にすれば10分の1秒あるかないか…。健志は姿勢をただし、盤面全体を見渡した。   

「やっぱり!」 

健志は心の中で自分に向けて確認の声を発した。それは中盤―視界のきかない森の中を歩き出して少し経った時に健志の脳裏を一瞬だけよぎった局面に似ていた。それは読みとは無関係に、目の前に忽然と現れたかの如く閃いたものだった。はたしてこの深い森の中に、そんな局面が実際に存在し得るのかどうかさえ見当もつかない、無論そこにたどり着く道順(=手順)などまったく分からない―そんな場所だった。 

健志は2時間ほど前に頭の中で見た局面を思い出そうと努力した。今目の前の盤上にある局面とどこが違うか。細部は思い出せなかった。が、重要な部分はまったく同じだ。2時間前、何の脈略もなくその局面が脳の中で閃いた時、健志は自分が有利であると判断した。では、それによく似た目の前の現実の局面はどうなのか。   

「何かがある」棋士としての直観がそう呟く。   

健志は残り少ない時間を使ってその局面の奥へと思考の歩を進めることにした。 

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011年8月 7日 (日)

Shogiブレイクムーブ01 【97】

97.

健志は自分が普段とは違っていることに気付いていた。対局が始まって間もない時間帯であれば周囲のあれやこれやが気になることはしばしば経験することだが、渡部龍王との戦いは既に4時間近くに及んでいる。それなのに、ともすると意識が周りの音や光の変化、観客席の動きへと向いてしまう。「そんなことでどうする」と自分を叱咤しても将棋への集中は長く続かず、また思考の深さも足りないという感覚を拭いきれない。

ここまでは序盤戦であったため定跡や過去の対局を頼りに指し進めることができ、大きなミスを犯すことなくどうにか互角の形勢を保ってきたが、中盤に入れば読みと形勢判断の正確さが一段と重要になってくる。このままでは、特に終盤に強さを発揮する龍王が相手である、勝負形にも持ち込めないのではないか。腹の底あたりで焦燥がチリチリと小さな火花を発し始めていた。

自分の異変に気付いたのは昼食休憩の時だった。ステージ上に設けられた特設対局場から舞台裏の控室に戻り、テーブルに置かれた食事を見て健志は思わず世話係の女性に尋ねた。

「これは……?」
「ご注文のカレーですけど」

おそらく有名なホテルかレストランから取り寄せたのだろう、テーブルには銀製のトレーに同じく銀のカレーポットと、ご飯が盛られた豪華な紋様入りの大きな皿が置かれていた。

「僕が頼んだんですか」
「はい」

健志にはそんな注文をした記憶がまったくなかった。母ぐらいの年齢のその女性は初め笑みを浮かべていたが、健志の様子に異様な雰囲気を感じ取ったのだろう、

「ご用意できる料理の一覧をお見せしたらカレーを選ばれたのですけど…、お気に召さないようであれば別のメニューをご用意しますが」
「あ、大丈夫です」健志は即座に応えた。
「本当に、よろしいんですか」
「はい」

その言葉に女性は「それではごゆっくり」と一礼すると部屋を出て行った。

胃に何かがあると思考が濁るような気がするため、健志は奨励会三段になった頃から対局中は昼飯を食べなくなった。それなのにメニューを選んでいる。それもカレーなんて、食べなくちゃいけなくなったとしても、対局中の昼飯には絶対に選ばないような料理を注文している。

その理由は分かっていた。

庄村陣基が倒れ、また久保田棋帝がネット上で「感想戦」をハルと戦うという軽率な行動に出た責任を取って辞退したことで双方の代表選手が2人ずつになるという事態を受け、対抗戦を続けて行くには多少の手直しが必要だという点で全将連とCASSAの認識は一致した。その対応についてCASSA内部で話し合った際にナツキから意見を求められた健志は「なんなら、僕の対局はネットじゃなくてもいいですよ」と応えたのだが、それがどこでどう歪曲されたのか、観衆を前にした公開対局となってしまったのだ。

公開対局など健志にはまったく経験のないことであり、もともと人前で何かをするということが苦手な性質(たち)である、「あがってるんだ」健志はそう判断した。だが原因が分かっても、それで事態が改善するわけではなく、昼食後再開されてから相当の時間が経過した今もまだ普段の自分を取り戻せずにいた。

「こんな浅い集中のままじゃ、龍王相手に勝負にならない。どうにかしなければ……」

そう考えながら健志は顔を上げ、今正面に坐り、ややうつむき加減に盤面を見つめている渡部龍王の頭に視線をやった。まだ20代半ばながら、20歳で取った初のタイトルを7期にわたって守っている、将棋界を代表する棋士の一人である。柔軟かつ機敏な序盤の作戦力、中盤で見せる鋭い着想、「他の棋士よりも10手早く詰みを発見する」と云われる終盤の深く広い読み―棋界の次代を担う存在と目されている。

体は決して大きくないが、こうして盤をはさんで対峙すると圧倒されそうな存在感がある。「相手の名前に負けるな。目の前の局面だけに集中しろ」というのは、実績ある強豪と対戦する時に若手が心がけるべき鉄則なのだが、今健志は、観客を前にした公開対局ということも手伝って相手に気圧されていることを自覚していた。

渡部龍王は羽織袴の、いわば棋士としての正装に身を包んでいたが、健志は敢えてスーツを選んだ。昔、「将棋に集中したい」、「将棋以外のことに気を遣いたくない」とスーツで名人戦七番勝負を戦った棋士がいたが、健志も同じ心境だった。だいいち健志はまだ和服を一人で着ることができない。人の手を借りて形だけを取り繕うことになる気がして、全将連からの「できれば和服で対局を」という要請を断った。

それでなくとも平常な気持ちを保てないでいるのだ。その上、衣服にまで気を使わなければならなかったら、将棋にならなかっただろう。健志は自分の判断が正しかったと確信し、今少し気持ちが楽になった。それが多少心に余裕をもたらしたのだろうか、健志は会場を見渡す気になった。

観客席は照明が落とされているため、ステージ上からは観客の顔は判別できない。500人収容の客席はほぼ埋まっていたが、それほどの人数が直ぐ近くにいることが信じられないほど会場は静まり返っていた。大盤解説もなく(解説は別の会場で行われている)、時には1手に10分も20分も考えることがあるにもかかわらず、こうして多くの人がじっと熱心に見守ってくれているという事実を目の当たりにして健志は自分の中に沸々と湧き上がってくるものを感じた。

チッという小さな音がした。渡部龍王が指し手を進めた。駒から離れて行く相手の指を目で追い、盤面に視線を戻す。その時、対局が始まって以来初めて健志は自分の頭の中にある盤面と目の前の将棋盤がシンクロしたような感触を覚えた。視界から盤と駒と駒台以外のものがすっと消えた。

思考に力強さが加わってきた。頭の中で描く局面がどんどんと未来に向かって展開してゆく。どうにか戦えそうだ―健志は確固とした手応えをつかんだ。

次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月24日 (日)

Shogiブレイクムーブ01 【96】

96.

さすがのハルも慎重だな。

指し手はようやく2手進み、問題の局面までは残り3手となっていた。今、後手の玉将は自陣にあり、金と銀がその周囲をガードしている。先手は攻め方が難しく、ありきたりの手段では攻撃がとん挫する―いわゆる「切れた」状態になりかねない。

3手後の局面では攻めを続けるのか、それとも一旦自陣の守りの体制を整備するべきか、大きな方針の決定を求められる。健志は攻めを続けるべきだろうと考えているのだが、具体的な指し手を発見できないでいる。また後手の玉将にはやがて6筋から5筋、4筋へと中央突破によってこちらの右翼に脱出され、入玉―こちらの陣内にまで逃げ込まれてしまう可能性もある。そうなっては勝負にならない。なんとか、敵玉将が逃げ出す前にとらえたい。健志はパソコンから、脇に置いた将棋盤へと視線を移した。

その瞬間だった。それまで指し手を読むのに使っていた仮想将棋盤がある領野よりもはるかに深い脳の奥底で、ある手が閃いた。一見すると「とんでもない手」なのだが、真に優れた指し手に特有の“手応え”がその手にはあった。即座に頭の中の駒台から桂馬を取り、将棋盤の5五に打った。それでとりあえず4三と6三にある敵の駒に両取りがかかる。だが、それより1つ前の5四の升目には相手の歩が待ち構えている。つまり打った途端に取られてしまう桂馬なのだ。しかしその「取られてしまう」ことこそがこちらの狙いだった。後手は放置すれば4三か6三にある駒を取られるので当然5四の歩で桂馬を取らざるを得ない。その瞬間、自分の玉将が先手陣を目指して逃げ出す経路が自軍の駒でふさがれることになる。

健志は5五桂打ちという手の効果を確認し、慄然とした。ハルはこの手にいつ気付いたのか。ネット上で久保田棋帝や観戦者たちに向って「先手が勝っていた」と主張した時には既に気付いていたのだろうか。だとすると20手以上前に、相手の歩の前に桂馬を打って捨てるというきわめて気付きにくい手を読み切っていたことになる。

今の局面を目の前にすれば、トップクラスの棋士なら5五桂打ちという手に気付くことができるだろう。しかし、今より2手前の局面で気付ける者の数は間違いなく少なくなるだろうし、さらに5手前、10手前……と、局面を遡行していくほどにこの手を見つけられる人間の数は減少していくに違いない。20手以上前に気付ける人間なんているだろうか。ハルはそれをやってのけたことになる。

健志は再びパソコンの前に戻った。ほどなくハルが5五に桂馬を打った。

「勝った」

その後の変化を調べ尽くしたわけではないが健志はそう確信した。おそらく久保田もハルが考慮している間に気付き、その後の対抗手段を懸命に考えていたのだろう。あまり時間を措かず5五同歩と桂馬を取った。やはり放置することはできなかったのだ。玉将の逃げ道をふさぐことになるが、機を見て今桂馬を取った歩をさらに5六まで進められれば、また脱出路は確保できる―そう考えたのだろう。

だがその機会は訪れなかった。

直後にハルの猛攻が始まった。相手玉将の前に歩を続けて打って取らせる「連打」から始まり、それまで自軍の玉将を守っていた左翼の金や銀なども次々に戦線へと繰り出し、常に「詰めろ」(次に王手がかかる状態)や「二手すき」(次に詰めろがかかる状態)の状況を維持しながら後手の玉将を追い詰めて行く。しかも一手にかける時間がほぼ一定していて、確信を持って指していることがはっきりと分かる。

対する久保田は長考と小考を繰り返しながら、劣勢を覆す手を必死に探しねばったが、ついに力尽きた。ハルとの戦いが始まって50手あまり、久保田が投了した。

           *****

四分割されたパソコンの画面に映る4人に向って米原は重い口を開いた。

「昨日、久保田棋帝から代表を辞退するという申し入れがありました」

画面に映っているのはCASSAの広花ナツキ、対抗戦のスポンサーである東西のITTの代表者、それと東日新聞の将棋担当記者だった。

「説得してはみたのですが、『相手が挑発的な発言をしてきたとはいえ、分別を欠いた身勝手な行動を取った上に、将棋にも敗れるという醜態をさらした以上その責任を取る』ということで本人の意志は固く、やむなく了承しました」

4人は黙ったままだ。

「久保田君に関しては全将連として何らかのペナルティを科すつもりでして、現在理事会でその内容を検討中です」

その言葉に反応するようにナツキが発言した。

「CASSAでも、ハルに対しては厳重に注意し、今後対抗戦期間中はネットでの発言を一切禁止しました」
「で、その対抗戦、どうします?」と言ったのは東日新聞の記者だった。「CASSAの方には庄村君の代わりになる人材がいないし、全将連の方は久保田さんがこんなことになっちゃったわけで、今の段階じゃ双方2人ずつでしょ。どうにも盛り上がらないんですよね」

確かにその通りだ、と米原も出場棋士の数が減ることによって対抗戦への関心が落ち込むことを懸念していた。だからこうして急遽会議を開いたんじゃないか。米原は画面の中から、体を少し傾けただらしのない姿勢で時折こちらを見る記者の顔を睨みつけた。

「会長、この際残った4人の総当たり戦に変えるっていうのはどうですかね」記者が尋ねた。
「それはできません。お好み対局ならいざしらず、このような棋戦で名人と龍王を対戦させることは絶対にできません」断固とした口調に、東日新聞の記者も黙らざるを得なかった。
「実は広花さんとも協議したんですが……」少し間をおいて米原が言った。「今の4人のままで続けることにしたいというのが全将連とCASSAの希望です」
「4人で、ですか」ITT東日本の部長だった。
「はい。規模が小さくなるのは避けられませんが、ハルと名人や龍王との対戦をぜひ見たいという要望が数多く寄せられてまして、対抗戦を打ち切ることだけはなにがなんでも避けたいと思っています」
「どうやら、すでに腹案をお持ちのようですね」今度はITT西日本の常務が発言した。
「はい。双方2人ずつの対抗総当たり戦ということで4局行います。毎週土曜日に1局ずつ開催し、4週間で完了ということにします。対局規定は従来通りです。ただし……」米原はそこで一旦言葉を切り、「大沼君から、2局ともネット対局ではなく通常の形で対局したいという要望がありました。彼の対局に関しては、しかるべき場所での公開対局にしようと考えています」
「しかるべき場所とは具体的には……」
「はい、ITT東日本さんの本社ビルにあるイベントホールを考えています。で、対局の様子を初手から投了までネットテレビを使って中継しようというアイデアです」
「それは面白いね」ITT東日本の部長が反応した。「すぐにホールの空き状況を調べさせよう」
「あ、それには及びません。実は……」米原は言い難そうに言葉を継いだ。「担当の方を通じて、使えることを確認済みなんです」

画面の中で、ナツキ以外の3人が「なんだ」という表情になった。

「ハルについてはどうするんです?」
「彼はコンピューターと一心同体ですから、公開対局というわけにいきませんが、こちらはそのコンピューター室にカメラを持ち込んで同じくライブ中継します。もちろん全将連会館の対局室にもカメラを入れ、名人や龍王の対局姿も中継します」
「それはいいね」西日本の常務だった。「実は、棋譜中継だけじゃつまらんと思ってたんですよ」
「ありがとうございます。それで賞金についてなんですが、参加する棋士の総数が減ったのですから賞金規模も小さくするのが筋かと思いまして、当初の計画を変更して、まず勝利者賞ということで勝った者に1,000万円を贈ります。また1人当たり2局を指すことになるのでその2戦を全勝した者にはさらに1,000万円をボーナスとして出します。従って賞金総額は最大で6,000万円ということになります」
「米原さん、我々にとって賞金の額は大した問題じゃない。確かに久保田さんが出られないのは残念ですが、だからといって賞金を減らすのは得策とは思えない。今仰った額をそのまま倍にして、賞金総額は当初の通り1億2,000万円でいきましょう」東日本の部長の言葉に西日本の代表である常務も大きく頷いた。
「ありがとうございます。それではお言葉にあまえて、賞金総額1億2,000万円ということで、あとはスケジュールを調整した上で最終案ということで明日にでもお持ち申し上げます」

どうにかスポンサーの同意を取り付けることができて米原は小さく安堵の息をついた。

 

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010,
2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月11日 (月)

Shogiブレイクムーブ01 【95】

95.

対局室のドアはロックされていた。何度かノックしたものの中から反応はなかった。

「合鍵はないのか」

米原が後ろでうろたえているばかりの小野寺に尋ねたが、

「この部屋にはネット対局用の機材が入っているので安全のため特殊なロックに取り換えてますので、合鍵といったものはないんです」
「どういう意味だ?」
「そのドアノブの上にあるテンキーから6桁以上の数字を組み合わせて入力して暗証番号として設定するようになっているんです」
「その番号を君は知ってるのか」
「はい」
「だったら、さっさと開けろよ」叱責にも近い言葉に慌てた小野寺は米原を押しのけてドアの前に立つと急いで数字キーを押した。何度か繰り返した後、
「どうやら誰かが暗証番号を変えてしまったようで……」
「要するに開けられないのか?」
「申し訳ありません」

自分が興奮すればするほど小野寺は委縮するばかりで、事態の解決に結び付かないと判断した米原は、別の階にあるネット中継のための技術室に向かうことにした。その後を小野寺もついて行く。

途中、階段の踊場で米原は振り返ると、努めて穏やかな口調で言った。

「君は事務所に戻って、ファンからの問い合わせに対応しなさい。電話がひっきりなしにかかってきてるんだろ」
「はい」
「余分な混乱が起きないよう、職員を指導してあげなさい」
「あ、はい」

小野寺は数度お辞儀を繰り返すと1階を目指して階段を駆け下りて行った。

「あと5手だ」ハルと久保田の対局が始まってから健志はパソコンの横に将棋盤を置き、自分の読みと画面上の進行とを比較しながら見ていた。指し手が進んだ今、健志がハルに連絡して意見を聞こうかと思った局面へと近づきつつあった。

健志も突然始まった▲ハル-△久保田の将棋に、最初戸惑い、なぜそんなことになったのか訝しんだ。

久保田棋帝からの提案で、ハル選手が庄村選手の側を持って、先ほどの終了局面から指し継ぐことになった。ただしこれは公式対局ではなく、あくまでエキシビションマッチであり、久保田棋帝の言葉を借りるなら「代役によるオンライン感想戦」である。

その背後で、ネットに取り上げられた(多分に誇張された)自分の発言が一役買っていたとは健志に知る由もなかった。

ファンの反響はすごいものがあり、全将連事務局の電話はすべて鳴りっぱなしだという。その大半が「よくぞ、ハルの挑戦を受けた」と久保田棋帝の態度を賞賛する内容だとのことである。

ハルは読み切っている。それなのに自分には、この先の指し手が分からない。健志はパソコンの画面から目を将棋盤に向け、集中力を高めることに専念した。

「この対局を中止させる方法はないのかね」米原は、パソコンを操作している松木とその傍らにいる草野の二人に質問した。
「ないわけではありませんが、少々荒っぽい方法になります」リアルタイムでコメントを入力している松木は手を離せないため草野が答えた。
「荒っぽい方法とは?」
「強制終了です」
「どういうことだね」
「動いているパソコンの電源プラグを引き抜いてしまうというのがイメージ的には一番近いでしょうか」
「それは直ぐにできるのかね」
「はい、やろうと思えば」
「それじゃ、直ぐにやってくれ」
「でもいいんですか。このハル-久保田戦にファンは大喜びしてますよ。それを強制終了したら、ファンは二度も対局の途中までしか見れないことになります。後で問題になりませんかね」
「久保田さんも満々の自信ありって感じでしたからね。そう簡単には負けないでしょう」草野の言葉を引き継いで松木が言った。
「久保田君は分かっとらんのだよ。とにかく、直ぐに中止させてくれ」

米原の考えは変わらない。有川から聞かされた大山名人の指し手研究のことがあったからだ。米原自身、全部の手順を確認したわけではないが、あの大山さんが雑誌にまで書いたのだ。間違いはないはずだ。

断固とした米原の態度に草野は「はい」と言って立ち上がり、少し離れたところにあるパソコンの前に移動した。モニターを睨み付けるよう見ながら猛烈な勢いでキーを叩き始める。モニターは米原が見たこともない画面に変わり、そこに草野が打ち込む内容が表示されて行く。アルファベットと数字の組み合わせで、もとより米原にはまったく意味が分からない。

草野の手が止まる。「ん」と小さくつぶやくと再びキーボードを叩き始めた。だが今度も訝しげな表情で手が止まる。画面をじっと睨んでいたが、やがて、

「松木君、パスワード変えた?」
「いいえ」
「おかしいな」
「どうかしましたか」
「コマンドを受け付けないんだよ」
「管理者権限で入ってます?」
「もちろん」
「ちょっとこっちでやってみましょうか」
「うん」
「それじゃ、コメント欄の方をちょっとお願いします」

松木の言葉と同時に、草野のパソコンの画面が先ほどから松木が操作していた画面に切り替わり、直後に松木がキーボードを叩き始めた。今度は松木が、先ほど草野がやっていた操作を試しているようだと米原にも推測がついた。

「ダメですね。パスワードが変更されてるみたいです」
「だろう」
「だけど、パスワードを変えられるのは草野さんと俺以外にはいませんしね……。誰……」
「ハルだ」それは米原、草野、松木3人の口から同時に飛び出した答えだった。

米原がパスワードを変更したのはハルだと断定したのは直感だった。限られた範囲で使う程度のことはできるがコンピューターの中身についてはまったく分からないし、ましてや、今草野と松木が話題にしている管理者権限やパスワードがどんなものなのか見当すらつかない。だが、そんな自分にとっての絶対的未知の領域にあって、その専門家である草野や松木たちの裏をかくようなことができる人間はハルしか思い付かなかった。

技術的な対策について話し合っている二人の傍らで米原は技術的知識を持たない自分がその二人と同じ結論に至ったという事実から、ハルをどういう存在だと認識しているか次第に気付き始めていた。もともとがコンピューターと一体になって将棋を指すという、こちらの理解を超えた人間で、ある種の底知れぬ不気味さは感じていたし、コンピューターの力を利用するとはいえ、その強さが尋常でないことは分かっていた。今米原は自分には理解し得ない広さ、大きさ、奥深さを持つ人間を目の当たりにした怖れが体の底から湧きあがってくるのを感じていた。

【続く】
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 4日 (月)

Shogiブレイクムーブ01 【94】

94.

米原とナツキの話し合いは行き詰っていた。双方3人ずつの代表による対抗戦という形で開始されたITTカップ将棋対抗戦である。一方の選手が1人少なくなったのでは、その大前提が崩れてしまうわけで、根本からの見直しが必要になる。その場合、最も重要な点はスポンサーとファンにどう納得してもらうかだが、そのための妙案が見つからず、話は停滞していた。

《何度も聞くようだけど、庄村君の代わりになる者はいないのかね?》
《申し訳ありません》
《それじゃ、こっちは3人、CASSAは2人のままで進めて行くしかないんじゃないかな》
《こちらとしては反対できる立場ではありませんが、ただそれだとファンが納得するだろうかという心配があります。一方が3敗のハンディキャップを負っていては、対抗戦の意味はなくなってしまうと見られるんじゃないでしょうか》
《確かに、対抗戦としての面白みはなくなってしまうだろうね》

厄介な事態になったなと米原は何度目かのため息をついた。話を続けている内に米原の中に、対局中に倒れるような者を代表に選んだCASSAやその背後にあるMH財団に対する怒りが生じてきていた。だが今そのことで相手を責めたところで事態が好転するわけでもない。

《話を整理しよう。CASSAには代役が務まる人材がない。つまり2人しか代表を出せない。よって大会規定にあるように、『全将連の対局規定を準用する』のであれば、庄村君は3敗となり、CASSAはスタートから大きなハンデを背負うことになる。それではたしてスポンサーやファンの了解が得られるかどうか。得られれば良し。得られないとなれば、3人対2人の対抗戦をどう合理的な形式にまとめられるか、ということになるわけだ》

米原はそう言いながら、そんなことはナツキから電話を受けた直後に分かっていたことじゃないかと自分の言葉の空疎さに嫌気を感じ、そんな分かり切ったことを殊更口にして、結論を先送りにしている自分に舌打ちをした。

ドアに大きなノックがあった。

《ちょっと待ってくれるかな》そう電話口に向かって言うと、大きな声で「どうぞ」と応えた。

ドアを開けて入ってきたのは小野寺だった。この小心者があんなに強くドアを叩くなんてなにごとだ?

「お取り込み中すみません。実は有川先生から電話がありまして……」
「有川さんが?」
「はい。で、会長とお話がしたいということだったんですが、今は電話を取り次ぐなという指示を受けているとお断りしましたら、会長は今起こってることをご存知ないんじゃないかって、まずはそのことを確認してこいと……」
「そんなことは分かってるよ」苛立ちと怒りから米原の声は自然と大きくなっていた。「それで今こうして善後策を協議してるんじゃないか」
「は、申し訳ありませんでした」小野寺はそう言うと、「おじゃまいたしました」とすごすごとドアを閉めて行った。

その小野寺は事務所に戻り、電話口で待っていた有川に米原の言葉を伝えた途端、今度は有川に怒鳴りつけられることになった。

《バカやろう! あの米原が今の状況を知ってたら、協議なんて暢気なこと言うわけないだろ。直ぐにこの電話を会長室につなげ!》

「責任は私が持ちます。直ぐにプログラムを操作して、最後の局面に戻してください」口調は静かだが久保田は如何なる意見も聞き入れない断固とした態度を崩そうとしなかった。
「しかし、許可がないと……」中継の担当であり、技術面での責任者でもある松木は久保田の要請に簡単には応じなかった。
「誰の許可がいるって言うんですか」という久保田の問いに、「この場合は……」と、松木も即答できない。
「今日の公式対局は終わってます。相手の2手連続指しで私が勝ちました。それで記録上問題なしです。でも将棋としては完結した形をファンに見せることはできていない。今その将棋を引き継いで指してもいいという相手が現れ、こちらも了承した。間違いなくファンもそれを見たいと望んでいる。誰かの許可が必要とかいう問題じゃないでしょ」

松木はじっと久保田の顔を見返して応えた。

「分かりました。ただし何が起きても久保田先生の責任ということでお願いします」
「結構です」
「では対局室のパソコンにお戻りください。準備は5分もあればできますから」

松木はそう応えると即座にコンピューターの操作を開始した。

「久保田君」部屋を出て行こうとする久保田に声をかけたのは全将連側立会人を務めた棋士だった。「これはやっぱりまずいんじゃないか」
「なぜです。さっきも申しあげたようにこれは公式対局じゃありません。公開感想戦とでも言ったらいいかな。いわばエキシビションマッチ、一種のファンサービスですよ」
「と言いつつ、あのまま指し続けていたら負けていたと言われたのが腹にすえかねるからだろ」
「当然でしょ。どれくらい強いか知りませんがアマチュアに大勢の前でそう言われて黙っていたんじゃプロの名折れでしょ」

口調が穏やかな分、かえって久保田の怒りの深さが垣間見える発言だった。

「ま、その気持ち、分からないじゃないが……」
「でしたら、私の好きにさせてください。お願いいたします」深々と頭を下げて久保田は部屋を出て行った。

有川は開口一番に言った。

《ヨネさん、あんたパソコン見てるかい》
《なんのことです?》と言いながら米原は電話を置くと、パソコンの前に坐り、マウスを動かしてスクリーンセーバーを解除した。《これは……》

画面では対局が行われていた。あの「反則負け」の画面から数手或いは10手以上は進んでいるだろうか。

《あのハルっていう向こうの選手が、久保田君に挑戦してきたんだよ。あの局面で既に後手に勝ちはなかったってね》
《でも、なんで対局が再開されてるんです?》
《久保田君が、そんならあの局面から指し継ごうじゃないかって応じて、今こうやって二人で指してるところだよ》
《そんなバカな……。誰がそんなことを許可したんだ》米原はそこで黙り込むと、思考を整理しようと努めた。
《ヨネさん、このまま行くと久保田君、負けることになるよ》
《それは間違いありませんね》
《ああ、大山先生が見つけた最も難解な筋に進んだとしても、先手が間違えなければ後手に勝ちはない》

それだけ聞くと米原は手短に礼を言って有川との電話を切り、携帯電話でナツキに言った。

《ハルは今どこにいる?》
《現在の居所は分かりませんが》
《直ぐに探し出して、今やってることをやめさせろ!》
《ハルが何をやったって言うのでしょうか》
《パソコンを見ろ。見れば分かる》

それだけ言うと、米原は会長室を飛び出して行った。

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月24日 (金)

Shogiブレイクムーブ01 【93】

93.

対局室から少し離れた部屋で、高畑は庄村すず子や広花ナツキなどの関係者と大型スクリーンでネット中継の盤面を見ていた。「先手反則負け」の表示が現れた時、最初に反応したのはすず子だった。

椅子から立ち上がった彼女は一瞬のためらいも見せず部屋を飛び出して行った。その動きの意味を悟った高畑がその後に続いた。対局室のドアを開けたのはすず子だった。部屋のほぼ中央で、陣基は体を半分に折るようにしてテーブルに突っ伏していた。二人の立会人は何が起こったのか理解できず呆然と立ち尽くしていた。

「急に頭がガクンて下がったと思ったら、それっきり動かなくなっちゃったんですよ」

全将連から立会人として派遣されてきていた棋士がまるで言い訳でもするかのように、高畑とすず子のどちらへともなくそう告げた。

「ジンくん」

すず子は陣基に近づくと、そっと声をかけた。反応はなかった。高畑も陣基に近づいてみた。前回、場所も同じこのTMC研究所で、ハルの対局を見ていて突然昏倒した時に似ている。顔が将棋パッドの上に乗っかっている。それをパッドのセンサーが感知し着手と判断したのだろう。「連続指し」とみなされ、反則負けになったに違いない。

「救急車を呼びました」

声に振りかえるとナツキがドアのところに立っていた。

「庄村さん、まず主治医の先生に連絡を入れた方がいいでしょう。先生のところまで連れて行く場合も考えて、手は打ってあります」
「はい」

ナツキの言葉に応えるとすず子は携帯電話を取り出し廊下に出て行った。

「やっぱり無理だったんですかね」

高畑はナツキのところに歩み寄り、小声でそう尋ねた。

「今は反省会を開いてる時じゃないわ。まず陣基君を助けること、それが一番大事なこと」

高畑はナツキの言葉に反論しかけたが、かろうじて言葉を呑み込んだ。

ナツキの携帯電話が鳴った。すばやい手つきで電話を操り、二言、三言返事をして切る。

「ヘリの用意ができたわ」

それは、埼玉の主治医のところまで陣基を連れて行くことが必要になった場合を想定しての手配だった。

すず子が戻ってきた。

「やはり先生は、自分のところまで連れて来いって言ってました」

申し訳なさそうにそう告げた。

「分かりました。ヘリの用意をしてありますので、救急車でヘリポートまで運んでもらいましょう」
「じゃ僕も一緒に……」と高畑が言いかけた時だった。
「いえ高畑さん、けっこうです」声は小さかったがすず子の言葉には断固とした拒否の響きがあった。
「でも……」
「お心遣いありがとうございます。本当にお世話になってばかりでお礼の言葉もありません。ですが、この対抗戦に参加することは陣基と私で決めたことです。なので、今日のこの結果はあの子と私の責任です。今、電話で先生にも怒られました。なんで、そんな将棋を指させたんだって。でも後悔はしてません。陣基も同じ思いのはずです。この大会のことを初めて話した時、あの子ははっきりと参加したいと言いました。あんなにはっきりと意欲を口にしたのは初めてでした。その時にこれがあの子の最後の将棋になる可能性があることも覚悟しました。陣基もそのことは勘付いていたはずです。久保田さんという強い棋士と将棋を指せて、あの子は精一杯頑張ったんだと思います」
「でも相手が誰かということは……」
「私が教えました。あの子には全将連の代表3人が相手だということを理解した上で戦ってほしかったんです」すず子は笑みを浮かべていた。「陣基は普通の子供のようには生きられません。サヴァンには往々にしてあることらしいんですが、健康面で問題をいくつも抱えています。だから好きなことを、できることを思いっきりやらせてあげたかったんです」
「救急車が来ました」

職員の一人がそう告げた。

金属製のストレッチャーを押した救急隊員がやってきた。デジャヴュのように、数か月前と同じ光景が目の前で展開していくのを高畑は見ていた。

隊員が陣基の様子を調べる。すず子が状況を説明する。隊員が何度もうなずき、隊員同士で言葉を交わす。一人が上体を、もう一人が脚の方を持ち、停滞のない滑らかな動きで陣基をストレッチャーに乗せた。そうして横たわると、体の細さ、小ささが際立って見える。その小さな体に毛布がかけられる。隊員がストレッチャーを静かに押して行く。エレベーターの前まで来ると、ナツキがすず子に短く声をかけた。すず子が丁寧に頭を下げて応じる。エレベーターの扉が開く。ストレッチャー上の陣基とすず子、それに救急隊員が乗り込む。扉が閉まる直前、すず子が深々とお辞儀をした。

エレベーターの扉が閉まった後、高畑はしばらくその場にたたずんでいた。すず子からは、母子の思いをしっかりと聞かされた。が、自分は何も口にすることができなかった。すず子に対する思いも、陣基に対する思いも……。それともう一つ―高畑は対局室に入る許可を得ておくべきだったと深い後悔の念に苛まれていた。全将連とCASSAとの協議で、対局室に入ることができるのは対局者本人以外には双方の立会人2名だけとすることが決まった。再三の要求にもかかわらずその決定が覆ることはなかった。そのため今回は高畑のみならず、陣基の母親であるすず子も息子の側にいることを許されなかった。もっと強硬に言い張るべきだったのかもしれない。それが悔やまれて仕方なかった。

気付くとエレベーターの行く先表示が1階に達していた。陣基は既に救急車に乗せられたのだろうか。耳を澄ましてみたが救急車のサイレンは聞こえなかった。

まだ有川と電話で話をしているときだった、携帯電話に着信があった。米原は有川に礼を言って電話を切ると、直ぐに携帯電話の着信通話に応じた。CASSAの広花ナツキからだった。

《会長、申し訳ありません》
《え、何のこと?》

有川との電話の間、米原はパソコンを見ていなかった。そのため、陣基の反則負けのことを知らなかった。無論、そのために全将連に問い合わせの電話が殺到していることも知る由もなかった。

《そりゃ困ったなあ》ナツキの説明を聞くと、米原は椅子に腰掛け体を大きく後ろにそらして天井を仰いだ。《陣基君が戻ってこられる可能性は?》
《主治医の判断を待たなければなりませんが、前回のこともあるので今度は簡単に行かないと思います》
《二度目なんだ?》
《はい》
《だとすると、治療には時間がかかるだろうね》
《その可能性は大きいと思います》
《そちらには、彼の代わりになる人は……》
《以前にもお話したように、現時点で全将連のタイトルホルダーと戦えるのは3人だけです》
《その内の1人が戦線離脱で、2人になっちゃったってわけか。3対2じゃ、いかにもバランスが悪いよなあ》
《申し訳ありません》
《さて、どうしたもんかなあ……》

そうやって米原とナツキが善後策を話し合っている間に、事態は思いもかけない方向に動き出そうとしていた。

健志はハル宛ての電子メールの内容を途中で変え、陣基に何が起こったのか知らないかと尋ねてみた。

《wakaranai. ima natsuki ni mail de kiiterutokoro》

即座にローマ字書きのハルからの返事が返ってきた。

《jinki ga taoretakamo》
《ぼくもそうおもう ざんねんだけど》健志のメールはすべてひらがな書きだ。
《takeshi, jinki wa katteita》
《それはどういういみ?》
《watch the internet! youll see what i mean.》

そう伝えてきた後、ハルからのメールは来なくなった。健志はハルの言葉に従い、ネット中継の画面を開いた。既に対局は陣基の反則負けで終了しているはずなのに、コメント欄が更新されている。

どうやら庄村選手に突発的な事態が起こったようで、庄村選手は救急車で病院に運ばれて行ったとのことである。詳しいことが分かり次第、こちらでお知らせする予定である。ところで、先ほどからここの投稿欄にハル選手から何度となくメッセージが送られてきている。こちらで翻訳したところ、今終わった対局は庄村選手の勝ちだったという内容だった。既に局面はクリティカルポイントを越えていて、この後、後手の勝つ筋はないとのことである。このハル選手の主張には、解説をお願いしている松野七段をはじめ、会館に詰めかけた多くの棋士たちが疑問を呈している。

「あの局面で、先後どっちにしろ、勝ちを宣言するなんて無謀です」(松野七段)
「あれで勝負がついてるなら、私は将棋の考え方を根本から変えねばなりません」(伊田四段)

ハルは読み切っていたんだ。健志は確信した。

ツイッターやいくつかの将棋関連の掲示板などでも、このことが取り上げられているようで、多くの人が半信半疑ながら、本当なら手順の例をひとつでもいいから見せてみろという意見も少なくない。記者がそのことをハル選手にメールで伝えたところ、「久保田さんが希望するなら」という返事が今返ってきた。

もしかしたら、陣基がこんな古風な将棋を選んだ背景にはハルが関係していたのかもしれない。

携帯電話が鳴った。見たことのない番号だった。

《はい、大沼です》
《突然の電話で失礼いたします。ネット中継でお世話になってる草野と申します》

それは将棋のネット中継の世界では草分け的存在の人物だった。全将連会館で幾度かすれ違ったこともある。

《お名前は存じてます》
《現在行われている対抗戦で補佐をやっているのですが、ネット中継はご覧になってますか》
《はい》
《それでは、ハル選手が庄村選手の勝ちだと言ってることはご存知ですね》
《ええ》
《そのことについて、感想を聞かせていただけませんか》
《ハルが口から出まかせを言うとは思えません。調べた上で、彼なりの結論に達したってことなんじゃないでしょうか》
《では反則負けにならなかったら、庄村選手の勝ちだったということですか》
《勝ったとまでは断定できませんが……》
《断定はできないが……》
《先手にも勝ち筋はあったと思ってます》
《大沼さんも先手が勝つ可能性があったと考えているということですか》
《はい》
《ありがとうございました》

相手はそう言うと一方的に電話を切った。まずいことを言ったかなと思いを抱きつつも健志は草野が電話をかけてきた真意がつかめず携帯電話をぼんやり眺めていた。だがその電話の意味を知るのに大して時間はかからなかった。インターネットが持つ驚くほどのスピードと、人を介することで自分の言葉が微妙に変形させられてしまう恐ろしさを健志は同時に知ることになった。

電話から2分もしない内に、次のコメントがパソコンの画面に表示されたのだ。

同僚記者が電話で確認したところ、CASSAのもう一人の代表選手である大沼四段も先手が勝っただろうとの意見だった。

対局が唐突に終わってしまった後、久保田はしばらく何が起こったのかが理解できないままパソコンの前に坐っていた。それは同じ部屋にいた立会人たちも同様だった。CASSAの立会人が携帯電話を何度となくかけ、ようやく陣基の身に起きたことを確認し、久保田に伝えた。

「ネットじゃ、大騒ぎになってるだろうね」これは全将連側の立会人だった。
「ちょっと見てみましょうか」と、CASSAの立会人が応じる。
「そんなことできるの? このパソコンは対局専用の設定で、ほかの画面は映らないんじゃないの」
「対局も終わってるし、設定を変えても問題はないでしょう」

久保田は黙ったまま、二人の立会人のやり取りを聞いていた。

「久保田先生、ちょっと失礼します」そう言うとCASSAの立会人は久保田に代わってコンピュータの前に坐り、USBをスロットに差し込むと操作を開始した。ほどなくパソコンの画面が変わり、ネット中継が表示された。

「わたしらにはまるで魔法だね」パソコンを操作する様子をじっと見ていた全将連の立会人が久保田に同意を求めるように言った。だが久保田はその軽口には応えず画面を注視していた。そこにはハルからのメールの内容が紹介されていた。

「負け惜しみもここまでいくと、可愛げがないな」全将連の立会人が気付き、苦々しげに言った。

「コメントの先を見せてくれますか」久保田の言葉に、困った表情でパソコンの前に凍りついていたCASSAの立会人がしぶしぶ操作すると画面が動き、コメントの続きが表示される。やがて、健志の発言を紹介した部分が映し出された。久保田の表情が変わった。傍らに置いてあったバッグから携帯電話を取り出して電源を入れると、直ぐにボタンを押した。相手は即座に出た。

《久保田です。ハル選手でも大沼君でもいいから、今の局面から指し継いでもらおうじゃないかと伝えてください》

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月12日 (日)

Shogiブレイクムーブ01 【92】

92.

書かれている変化は非常に難しいというものではなかった。この程度の変化なら事前に読み切ってしまい回避することができるので、通常では逆転など考えられないが……。米原の沈黙の意味を理解したのだろう有川が口を開いた。

「そこに書かれてるのは膨大な数に上る変化手順の中でも最も分かりやすいやつだよ。一般読者を相手の雑誌ということから、あんまり突っ込んだ指し手の解説をしても意味ないからね。なので大山先生は一番簡単な変化だけを取り上げて、一応の結論としたってわけだ」
「しかしなんでそんなことを……」
「あの先生の負けず嫌いは、ヨネさんも知ってるだろ」
「ええ」
「そこに、『席上対局で持ち時間が少なかったので読み切ることができなかった。だからこの変化を選ばなかった』ってな意味のことが書いてあるだろ」
「確かに……」
「実に大山先生らしいじゃないか。対局では負けたけど、あの将棋、本当は自分の勝ちだったって雑誌に掲載してるんだから」
「いや、私に言わせてもらえば時間の短い席上対局でこの変化に気づいたら、あの先生だったら絶対に指したと思うんですが」
「どういうこと?」
「『この大山に読み切れん変化を、あんた読み切れるか』っていう対戦相手へのプレッシャーですよ」
「そうだね、そこに至るまでの変化を含めれば、プロ八段でも数時間では全部を読み切れんだろう―そんな紛れの多い指し手を大名人に指されたら、ほとんどの相手はそれだけで負けた気分になっただろうね」
「でも指さなかったんですよね。それは、後になってから自分の勝ち筋に気づいたからじゃないですかね」
「いや、あん時に大山先生は気づいてたんだよ。ただし読み切ることはできなかったんだ」
「じゃ、なぜ指さなかったんですか」
「おいおい、仮にも俺は大山先生の弟子だぜ」

なるほどそういうことか―米原自身はあまり師弟関係ということに重きを置いておらず、実際師匠から特段の配慮や厚意といったものを受けたこともなかったので考えもしなかったが、確かに師匠が席上対局で弟子に花を持たせる程度のことはあり得ることだ。

「その雑誌を読んでて思い出したんだけど、大山先生が考えた中で最も難しい変化というのがあるんだ。確か最終的には50数手に及ぶんだけど、途中の紛れも多く、手順のわずかな違いで形勢がひっくり返るようなきわどい局面も少なくないんだ」

そのことは雑誌記事には『ほかにかなり複雑で長手数の変化が何通りかあるが、結局先手の勝ちは動かない』とだけ書かれていた。

「大山先生がそう言ったんですか」
「あの席上対局の後、半月ぐらいした時に別の棋戦で先生が立会人で私が観戦記担当か何かで同じ宿に泊まったことがあってね、そん時に実際に並べてもらったんだ」そこで有川の声が変わった。「なあヨネさん、万一、あの庄村って子がこの将棋のことを知っていたとしても、大山先生でさえ確認に数日を要した膨大な変化を読み切れるもんだろうか」
「有川先生の話を聞いた限りでは、今の持ち時間では難しいでしょう」
「そうだよな」
「だけど、彼がこの将棋の棋譜を知っていたとしたら、それはこの雑誌記事が情報源ということになるでしょう」
「まあそうなるだろうな」
「だとすると、この『ほかにかなり複雑で長手数の変化が何通りかある』っていう部分も読んだろうし、事前に調べていた可能性もあります」
「だけどそこまで努力したって、久保田君が誘いに乗ってくるとは限らんだろ」
「実は前から感じてたことなんですが、久保田君って自分より若い相手に古い形の将棋を挑まれると結構むきになるところがあるんですよ。彼の対局を全部知ってるわけじゃないんで断言はできないんですが、思い出せる範囲でも、2、3そうした例がありましたからね」
「むきっていうのは?」
「相手の誘いに乗っていくってことです」
「そんなこと……」
「ええ、簡単に分かることじゃありませんよね。だけど向こうには、あ、CASSAのことです、あっちには全将連をも上回る膨大なデータベースがあるようなんです。それと、ハルと呼ばれている、あの彼ですよ。彼なら、データを分析して、そうした久保田君の性格を見抜くこともできるんじゃないかって気がするんです」
「恐ろしい話だね。まるで軍隊の話みたいじゃないか」
「彼らが、CASSAが情報分析に軍の手法を取り入れていることは間違いないですよ」

確信まではいかないが、健志はどうやら先手に勝ち筋があるのではないかというところまでこぎ着けていた。まだあと2つ、3つ解明できていない変化がある。だがその変化手順を調べ尽くそうとしたら1日では無理で、数日かかる可能性もある。とても今の対局中に結論は出せない。健志はふと、ハルに連絡を取って彼の意見を聞いてみようかと思った。この全将連の対抗戦が決まってからは一、二度連絡があっただけで、顔を合わせたことさえない。今もハルがどこにいるのかは分からなかった。ただ電子メールを送れば即座に返事が返ってくるような気がした。

時計を見ると、盤と駒を使って検討を始めてから30分以上が経過していた。PCの前に戻るとメールソフトを立ち上げてから、指し手の進行を確かめるために中継サイトの画面を開いた。まさにその時だった。指し手を示すウィンドウに赤い文字が表示され、点滅を始めた。

文字は「先手反則負け」と告げていた。

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月31日 (火)

Shogiブレイクムーブ01 【91】

91.

盤と駒を使って、まず初手から現在の局面までの手順を追ってみた。駒を動かしながら、ハルなら絶対に将棋パッドを使うだろうなと思った。最初からパソコンで将棋を覚えた人間とそうでない人間との違いは、突っ込んだ研究をするときに盤駒を使うかどうかに現れる。

現在の局面までたどり着くと、そこから先手が勝つとしたらどんな局面があり得るかを考える。即座に5、6の局面が思い浮かぶ。その大半で角が大きな役目を果たす形になっている。言い換えれば角の動きを止められた場合、先手の勝利は実現しないことになる。

ではいくつか思いついた先手の勝利局面の中で実際に到達可能なものはあるのか、或いは今はまだ想定できない形での先手の勝利があるのか―健志は今日初めて自分の思考が対局の当事者なみに深まってゆくのを感じた。

おそらくこの将棋の勝敗に関して一つの結論が出ていることを知らないのは対局している2人だけといえるだろう。知らぬまま必死に読み続けることで先人とまったく同じ道をたどっているわけだが、それは今戦っている両者の力が大山十五世名人やその巨人を打ち破った有川九段に匹敵していることの証左とも言えようか。

もし陣基が49年前の大山-有川戦の棋譜を知っていたとしたら、当然先手が負けることは分かっているはずだ。それでも同一手順をたどっているのは、この先に逆転に至る手順を用意しているからではないか。知っているのか、知らないのか……。

万が一このまま大山-有川戦と同じ手順で進み終局となれば、それは将棋史上初めての出来事になるだろう。少なくとも記者は、中盤以降数十手にわたり同一手順が再現されたのを見たことも聞いたこともない。かつて、物理学者で将棋愛好家だった小此木周造博士は、「過去に指された将棋と同一手順の将棋が指されたとき、それは人間における将棋の進化が終息に近づきつつあることの証しになるだろう」と言った。小此木博士の言葉が正しいのなら、この対局は将棋に関して人間がその限界に近付いたことを証明する最初のケースという、とんでもない事態が生じることになる。

健志はネット中継でそんなことが取り沙汰されていることには気づかず、ひたすら考え、駒を動かし、考え、また駒を動かすという作業を続けていた。何かありそうだ。具体的な解答は見つかっていないものの、健志は先手が勝つ手順がありそうに思えてきた。

米原もまた、先手逆転の可能性があるのではないかと疑っていた。それには自分自身の目で見た陣基の絶大な記憶力への畏怖が大いに影響していた。プロ棋士の記憶力―特に将棋の手順(棋譜)に関するプロ棋士の記憶力というのは一般人の理解を超えている。何十年も前に指した棋譜でも間違うことなく再現することができる。だが庄村陣基の記憶力はそうしたプロ棋士と比較してもまったく異次元のものという印象だった。

ただ米原は健志と違い、自分で先手の勝ち筋を探索しようとはしなかった。パソコンの前に坐り、じっと戦況を見つめている。陣基の記憶力を侮ってはいけない。遮光カーテンで日の光を遮って作った人工的な薄闇の中で明るく光るモニターの前に坐り、距離を置いて背中合わせに坐った少年と戦った時の感触が今も脳の表面に残っている。まるで熱いものに触れた指先の皮膚がその熱さをいつまでも記憶しているかのように。「久保田君、この少年を侮っちゃいけないよ」。米原は相手に届くはずもないアドバイスを心の中で発した。

電話が鳴った。

《はい》
《会長、3番に有川先生から電話です》

米原は内線から外線に切り替えた。

《米原です》
《とんでもないことが分かったよ》有川は挨拶もなしにいきなり切り出した。
《何ですか、とんでもないことって》
《まずは資料を見てもらった方がいいだろ。さっきコピーをファックスで送ったんだけど手元に届いてないかな》
《資料ですか》
《ああ女房にも手伝ってもらって、ようやく見つけたんだ》
《特に何も受け取ってませんが》
《ちょっと確認してくれるか》
《分かりました》

通話を保留にすると内線番号をダイヤルした。その時ドアにノックがあり、米原は手を止め「どうぞ」と応えた。思った通り、職員が手にファックスの紙数枚を持って入ってきた。

雑誌の記事だった。執筆者は大山名人。内容は49年前の大山‐有川戦だった―大山名人による自戦解説である。米原は、記事の本文はところどころに目を通す程度にして、各ページに1、2カ所ずつ書かれている棋譜を主に追っていった。いくつもの変化手順を手際よくまとめ、簡潔に分かりやすく解説している。米原にとっては苦手な対戦相手だったが、こうした文章の巧さは認めざるを得ない。ただいずれの解説も一般読者を意識した書き方で、真の意味で突き詰めた解析を行っているわけではない。「こんな素人相手の解説文のどこがとんでもないんだ……」米原は記事の途中で読むのをやめ、電話を取った。

《今ファックス見ました。これ、雑誌ですよね》
《『将棋二十世紀』って雑誌があったの覚えてるだろ》
《ええ》
《あれに大山先生が書いた自戦記だよ》
《で、これのどこに問題が……》
《最後のページを見てくれるか》

米原は有川の言葉に従い6枚目の紙を取り上げた。そこに書かれた「変化手順G」と題する棋譜を目にした途端、米原は頭の中で小さく叫び声を上げた。

その棋譜では先手が逆転勝ちを納めていた。

【次回:ここをクリック
【前回:
ここをクリック
Copyright © 2009, 2010, 2011, Party in My Library
《これはフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。》

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧