スポーツ

2008年9月 6日 (土)

大相撲大麻事件

日本相撲協会所属の力士若ノ鵬が大麻所持の容疑で逮捕され、さらには同じくロシア出身の露鵬と白露山が、協会が実施した簡易式の尿検査で陽性反応を示し、その後さらに同じ検体を使った精密検査でも陽性となった。

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2007年11月16日 (金)

イビチャ・オシム入院

本日未明、サッカー日本代表チーム監督イビチャ・オシム氏が脳梗塞で倒れ、病院に搬送された。午後11時の段階でICUでの治療が続けられているとのことである。

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2007年8月31日 (金)

プロスポーツとしての大相撲 - 朝青龍問題から

朝青龍は治療に専念するとのことでモンゴルに帰った。捲土重来を期待したい。

実は今回の一連の騒動で私が最も気になったのは、「プロスポーツとしての大相撲のあり方」である。ご存知のように相撲は神事としての由来を持ち、今でも土俵内外の所作にその名残を色濃く留めている。たとえば、左利きの朝青龍がその利き手で切って問題となった手刀は、本来は右手で「中・右・左」の順に切るべきもので、造化の三神への敬意を表す動作であったという。

そうした単なる武道や格闘技、スポーツにはない相撲独特の所作や慣習、しきたりが、サッカーなどにはない精神性や神秘性を感じさせ、外国のファンには大きな魅力となっているのだろう。

確かに、相撲からあの独特の動きをすべてとっぱらい、単に土俵の左右から大男が二人上がってきて、がつんと当たり合い争っても大して面白いものではないかもしれない。数々の動作、ちょんまげ、まわし、土俵にまく塩、行司の衣装など、背後に長い伝統や歴史を秘めていることが大相撲を興行として成立させている大きな要因のひとつであろう。

それは日本に生まれ育った者であれば、小さい頃から見慣れ、またその背景にある様々な歴史的、宗教的、文化的要素にもなじみがあり、説明されなくても知っていたり、知らなくとも簡単な説明だけで抵抗なく受け入れてしまうような事柄である。しかし、ある程度の年齢になって日本に来て、相撲界に入る外国人力士は事情が異なる。彼らには相撲の歴史をはじめ、所作の一つひとつに至るまで細かく説明しない限り、理解させることは覚束ない。そして、そうした理解・知識のない者が強くなっていき、角界の多数を占めるようになれば大相撲も必然的に変容していくしかないだろう。

即ち、大相撲を今の姿のまま保とうとするなら、日本人だけが相撲取りになった時代と同じノウハウ、システムでは機能しなくなるということである。たとえば、言葉ひとつを取り上げても、これまでは相撲協会として特別な教育プログラムは施してきていないという。10代で日本に来た力士のタマゴたちは日常生活の中で、文字通り恥をかき、涙を流して日本語を覚えていくという。その善し悪しをここで論じる気はないが、そういう今の原始的ともいえる方法では言葉を覚えられずに日本を去った者はかなりの数に上る。

また、稽古方法もあまり合理的とは言えず、せっかく豊かな才能を持った者を集めても、その不合理な鍛錬方法のために、少々言葉は悪いが、一人前に成長する者の「歩留まり」はかなり低いと聞いている。暴論に聞こえるかもしれないが、大相撲にあるのは育成システムというよりも淘汰システムである。

おそらく、これまでは淘汰というメカニズムも有効だったのだろう。だが淘汰が機能するには、その対象となる個体の数が十分大きくなければならない。新弟子検査に大勢の若者がやってきた時代であれば、十分な人数を揃えられたであろうが、応募者が1桁ということもある昨今では、才能ある者は貴重であり、角界全体で育てていかなければならないのではないか。

貴乃花が引退して4年程の間、朝青龍が横綱という大相撲の金看板を一人で背負ってきた。横綱は一人だけだったが、その間、幕内力士に占める外国籍力士の数は増え、現在では3割以上を占めるようになった。また、若貴時代には当然のように続いた所謂満員御礼もこの頃では連続することが珍しくなっている。さらには新弟子検査を受ける若者の数も減り続けている。こうした傾向を考えると、将来日本の大相撲は外国人力士によって支えられることになるのではないだろうか。そうなれば大相撲の変容、変質は避けられない。そのことを恐れてか、相撲協会は各部屋が抱えることができる外国人の数に制限を設けるようになった。だがそれで、真にすぐれた素質を持つ若者を確保できるのだろうか。きわめて疑わしい。

相撲がプロスポーツとして興行を続けていく以上、常に一流の才能を集め続けなければならない。一流の才能を集め、それに訓練を施し、常人のレベルをはるかに越えたパフォーマンスを見せることで、プロスポーツは成立するものであるからだ。スポーツは最高の才能が競い合わなければ、プロとして存続することは難しい。無論、「一流」にもレベルがある。「村一番」や「県下ナンバーワン」などから、文字通りの世界トップクラスまで。ただ、プロスポーツとして成立するには少なくともその国で最高レベルの才能が集まっていなければならないだろう。

今の大相撲がはたしてそういう状況にあるのかとなると疑問視せざるを得ない。あまり詳しくないので断言はできないが、K-1などの打撃系格闘技には、2030年前だったら相撲の道を選んだのではないだろうかと思われる選手が何人もいるように思う。ラグビー・トップリーグには、きっと部屋をあずかる親方たちなら、うちの部屋に来てほしいと思うであろう素晴らしい体格の選手が大勢いる。「たら・れば」の話ではあるが、千代の富士が20年遅く生まれていたら、はたして相撲の世界に入っていただろうか。案外、超大型フォワードなどと呼ばれ、サッカーをやっていたかもしれない。

ここで、大相撲は今後どう展開して行くことになるのかということを考えてみたい。既に述べたように、日本人の中に相撲取りになりたいという若者は減ってきており、今後、外国籍の力士が増えていくことはほぼ間違いない。それを阻止すれば、「一流の才能の競争」というプロスポーツの要件を満たせなくなり、衰退していくことになる。では、外国籍力士が増えていく中で、相撲協会は国際化を目差すのかとなると、これもまた少々疑問視せざるを得ない。

それには最初に述べた相撲が持つ伝統・歴史・宗教的要因が関わってくる。大相撲の国際化とはとりもなおさず「プロスポーツとしての国際化」にならざるを得ない。そのとき、相撲独特の伝統・歴史・宗教的要因を維持するのは難しいだろう。国際化の大先輩である柔道を見れば、その点は明らかである。あれほど日本が反対した柔道着のカラー化だったが、結局は数の論理に押し切られて採用が決まった。だがそれこそが国際化だと言えなくもない。大相撲が国際化されれば、まわしの下にアンダーパンツをはき、ちょんまげはなくなるだろう。そう、今のアマチュア相撲の姿である。その時には「部屋制度」は立ち行かなくなっているはずだ。親方一人で、何か国もの若者を言葉や習慣などを含めて教育できるものではなく、またそうした若者たちを育て上げる知識・技術・能力を持った親方というのは数が限られているはずだ。そんな希少な存在を当てにしたシステムなど、うまく機能するはずがない。或いは親方はマネージメント(経営)に徹し、弟子たちの指導はスポーツ生理学などを専攻したプロのトレーナーに任せるということになるかもしれない。その時、「部屋」の形態は今とは違ったものとなっているだろう。当然、親方=親、弟子=子、といった伝統的上下関係なども消えるだろう。現に今回の朝青龍騒動の陰には親方の権威低下という問題があり、これは高砂親方個人の資質の問題に留まらず、そうした大相撲の構造的変化の現れと考えるべきだろう。

大相撲をスポーツという観点から見た場合の、現在の「年6場所」という体制は適切だろうか。結論から言えば、今の開催方法では力士の負担が大きすぎると思う。今の力士は大きい。幕内になると150kgぐらいが普通だ。だが150kgを越える人間同士が力いっぱいぶつかればどうなるか。骨や関節にかかる負荷は非常に大きく、実際、関取の大半が何らかの故障を抱えているという。100kgを越えるような人間同士がぶつかるスポーツにアメリカンフットボールがあるが、あちらはプロテクターで全身を保護している。それでもケガは日常茶飯事であり、ケガのために若くして引退しなければならない選手も少なくない。しかもアメリカンフットボールの場合、ぶつかり合いは短時間である。相手を倒すことが目的ではなく、ほんの数秒、相手の動きを阻止すれば目的を達成できる場合が大半だ。その点は、もうひとつのコンタクト系ボールゲーム、ラグビーも同様で、激しく当たってはいるものの、相撲のように相手の衝撃を真正面から受け止めるというプレーはさほど多くない。サイドから当たったり、また正面からぶつかった場合にも衝撃をかわすために自分から倒れたりする。だが、相撲はそれでは負けだ。勝つためには相手を倒すか、土俵外に押し出さなければならない。その間、体には大きな負荷がかかり続けることになる。真偽は定かでないが大相撲に八百長があるという報道が繰り返し為される背景には、「まともにやっていたら、体がもたないはずだ」という、相撲という競技の激しさからくる推論も関与しているのではないだろうか。

伝統に根ざしていながら、相撲取りを希望する若者は減少傾向にあり、伝統を維持するのに(全面的とまでは言わないが、かなりの部分で)外国籍の人間に依存しなければならず、その外国人を育成するのにシステムは旧態依然のまま。大相撲が「日本の伝統」の部分を捨て去る覚悟であれば、外国人を無制限に受け入れるという方法も可能かもしれない。だが、それでは興行として成立しなくなるだろうと思われる。やはり、今のアマチュア相撲のようになっては、(スポーツとしての価値は変わらないにしても)「興行」としての魅力に欠けることは否めない。

では打開策はあるのか…。私には妙案はないが、ひとつだけ言えるのは、今の「年6場所」を減らすことを検討すべきだろうということ。現状では、相撲取りにはシーズンオフがない。少なくとも世界的に普及しているプロスポーツにはシーズンオフがある。それは、シーズン中、常に心身共にトップコンディションを維持しなければならないプロ選手にはきわめて大きなストレスがかかるからであり、オフなしでは選手生命を保てないという側面がある。

それが大相撲では2ヶ月に1回本場所があるため、1年中がシーズンである。その1年中がシーズンであることが、相撲取りが里帰りする際に、親方に報告し、場合によっては許可を得なければならないという現状の背景にあるのではないだろうか。たとえば、イチローはシーズンオフになったら、誰に気兼ねすることなく日本に帰ってくることができる。だが、朝青龍はいちいち親方に報告しなければモンゴルに帰ることができない(もっとも、それを守らなかったことが今回の騒動の伏線になったわけだ)。それでは本当の意味でのオフとは言えないだろう。「オフ」には、シーズン中の日常的つながりを遮断する意味も含まれている。採算が成り立つのかどうかは分からない。ただ、大相撲のスポーツとしてのレベルの高さ、興行としての面白さを両立させるなら、場所数を減らしてオフの期間を設けるべきだろう。

受信料問題で厳しい批判にさらされているNHKが、これまでは度外視してきた視聴率に目を向けるようになった場合、従来のシステム、やり方で、はたして大相撲はテレビという土俵で他のスポーツだけでなく、あらゆる映像コンテンツを相手とした異種格闘技戦を戦い抜くことができるのか。それほどに魅力的なパフォーマンスを提供し続けることができるのか。興行的にも十分なレベルのパフォーマンスを維持するためには、たとえ協会の意のままにならなくとも朝青龍のような稀有な才能・キャラクターをやすやすと失ってよいものか。今回の騒動は、朝青龍という一力士の問題に留まらず、大相撲が抱えるプロスポーツとしての問題点をさらけ出したものだと考える。

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