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2007年12月 3日 (月)

かぐやと嫦娥

少し前の話になるが、中国の月探査衛星「嫦娥」が月の周回軌道に乗り、月面を撮影した写真が公開された(20071126日)。その画像を見たとき、日本の「かぐや」が撮影したハイビジョン映像の鮮明さに比べ解像度がかなり劣るように思えた。月に到着したのも「かぐや」が先だし、このところ経済発展で活気のある中国に比して盛り上がりに欠ける日本が気にはなっていたので、この結果に御同慶の至りと喜んだのだが、日中の月探査計画には決定的な違いがあることを知り愕然とした。

それは松浦晋也というノンフィクション・ライターが日経BPnetに掲載している「宇宙開発を読む」という連載の第19回「月探査機打ち上げ、日中の格差はプログラム的探査の有無」というコラムで知ったことだった。

私のように詳しい事情を知らず、現象面だけで日本が中国をリードしているように考える者に松浦氏はこう警告する。

前後の事情を知らずに現象だけを見ると、日中の月レースに日本が僅差で勝ったような印象を受けるが、実態は全く異なる。

中国の月探査は、最終的には2020年代に独自の有人月探査実施することをも視野に入れた長期計画の一環である。今後2012年頃に無人着陸機、2017年頃に月の土壌を持ち帰るサンプルリターンを実施することが決まっている。

一方、日本の「かぐや」は単発ミッションであり、この先何をするのか、日本が月で何をしたいのか、今まさに文部科学省・宇宙開発委員会で審議中である。中国が実践しているのは、長期の見通しに基づいて探査計画を連続的に立ち上げる、「プログラム的探査」だ。

中国は長期的視野に立って計画を立案しているのに対し、日本は「かぐや」の後の計画すら決まっていないというお寒い状況にあるというのだ。中国のような長期の見通しに基づいて探査計画を連続して立ち上げていく手法を「プログラム的探査」と呼ぶらしい。しかも今回の「嫦娥計画」で中国は最低でも5年はかかるという月探査機の開発を、既存技術を活用することにより4年で達成した。さらには、「嫦娥1号」には予備機が用意されており、万一の「1号」の打上げに失敗した場合は直ちに予備機を打ち上げる体制を取っていたという。一方日本の「かぐや」には予備機といったものはなく、打上げに失敗すれば即計画が頓挫してしまうところだった。

こう見ると、日中の計画の違いが浮き彫りになり、画像の質の違いだけで一喜一憂している場合でないことが分かる。日本の宇宙関連計画の現状や問題点については、この松浦氏のコラムを読んでいただきたいが、要は計画の大型化と宇宙関連機関の統合の結果、計画と計画の間のギャップが最大で20年近く開く可能性があり、そうなると計画の失敗が連続する負のスパイラルに陥りかねないというのである。そこには、ディテールには力を発揮するものの、大規模な或いは長期的なグランドデザインとなると心許ない傾向のある日本が、宇宙という、間違いなく科学技術のフロンティアとなる分野で長期的展望なしのまま突き進んで行って、果たして意義のある成果を上げられるのかという危惧を抱かせられる。

確たる展望もなしに宇宙計画を続けていくなら、それは巨大な無駄遣いに終る危険性さえ孕んでいる。この国は25年の払込期間で受給資格を得るという社会保険制度でさえ、茫漠とした霧の彼方のことのように考え、長期の見通しを持たず運営し、本来であれば確実、堅実に運用すべき数兆円という金を、誰も利用しない巨大娯楽施設などに投じて浪費した前歴を持つ。

資源を持たない日本にとって、「技術立国」が生き延びる道というのなら、そのための方策の一つとして宇宙開発は絶対不可欠な分野であり、その意味でも長期的展望を確立してほしいものである。

共に月に関わりのある伝説の美女「かぐや」と「嫦娥」。それぞれに話の中では辛い結末を迎えている。今回も製作者たちの視野の広狭、視線の長短が宿命のように作用するというのでは哀しいではないか。

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