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2010年3月26日 (金)

冤罪

20年前、4歳の女の子が行方不明になり、翌日その遺体が発見された。犯人として逮捕された男は無実を訴え最高裁まで争ったが、無期懲役刑が確定。17年間服役した後、逮捕の決め手となったDNA型が犯人のものと違うことが判明。釈放された。

これが足利事件のきわめて大まかな経緯である。文字にしてわずか110字あまり。読むのに10秒とかかるまい。

しかし冤罪で17年間投獄された本人にしてみれば、終生消えぬ傷を心に負ったであろうし、当時の警察・検察関係者に対する恨みは忘れることはないだろう。

冤罪=ぬれ衣、恐ろしい過ちである。しかも、冤罪の背後には常にある種の「意志」が存在するように思える。

小説『モンテ・クリスト伯』は、当時のナポレオン派と王政復古派の対立という政治情勢の中でぬれ衣を着せられ終身刑となった主人公が牢獄を脱出し、牢の中で世話になった老神父に教えられた財宝を手に入れ、その財力で自分を陥れた連中に次々と復讐して行く物語である。

足利事件で投獄された人物には復讐の意志はないだろうが、彼の服役期間は17年間。『モンテ・クリスト伯』の主人公エドモン・ダンテスが海に浮かぶ孤島の牢獄シャトーディフに閉じ込められていたのは14年間である。

ただ現実と小説が違うのは、小説ではダンテスを冤罪で牢に送り込もうという明白な意志を持った存在に顔があった。ところが足利事件では、捜査機関という組織の中に意志が分散され、復讐を遂げようにも「仇」の姿がはっきりしない。

それでも、無実の人間を刑務所に送り込んだ意志は間違いなく在ったのであり、その意志がどうやって生まれてきたのかを明らかにしない限り、これからも冤罪はなくならないだろう。

では、一般市民としては冤罪の犠牲にならないようにするにはどうしたらよいのか。有効な手段は見当たらない。おそらく「捜査の網」とやらにかかってしまったら、捜査機関に何らかの「意志」が働いたら、個人に冤罪を逃れる術はないだろう。不撓不屈の心で、ただひたすら無罪を訴え続けるしか手だてはなく、それで果たして経験豊富な捜査員の追及に耐えきれるか。何しろ、多勢に無勢という、戦いであれば最も避けるべき状況がデフォルトセッティングなのだ。

一つだけ、冤罪を逃れるのに多少とも役に立つ可能性があるものに日記がある。私自身の経験で、飼っていた犬がよその家の犬を襲って瀕死の重傷を負わせたという疑いをかけられたことがあったが、たまたまその日はそんなことが起こりようがない状況であったことが、私の手帳の記述から判明。その事実を伝えただけで、それまで「裁判に訴えることも辞さない」と激しい口調だった相手が黙り込んだことがあった。

ある日、あなたの家の玄関先に数人の男がやってきて、「去年の5月12日のことでちょっと話を聞きたいので署までご同行願えますか」と言う。それっきり17年間、家に帰ることはもちろん、外を自由に歩く権利さえ奪われる。冤罪とはそんな風にやってくるものだ。

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