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2010年3月12日 (金)

「神の肉体」を持った男、清水宏保引退

メカニズムを使わず人間の筋力だけで推進する場合、地上最速の移動手段はアイススケートである。世界トップクラスの選手であれば最高速度は65km/hに達する。これは競走馬が走る速度と同等である。

平均しても時速50kmを超える世界 ― そこには常人には想像もつかない景色が広がる。

最高のパフォーマンスを発揮できた時は、回りから音が消え、真空管の中に閉じ込められたような感じになって、滑るべき光のラインが現れる。

こう言ったのはスピードスケート日本代表として4度オリンピックに出場し、金銀銅合計3個のメダルを獲得した清水宏保である。

あれは長野五輪(1998年)の前だったと思う。スポーツ関連のテレビ番組で、清水が「自分は筋繊維の1本1本を感じることができる」といった意味の発言をしたのを聞き、「いくらオリンピック選手でも、そんなことは不可能だろう」と思った。

ところがその後、ひょんなことから子供サッカーのコーチをやることになり、それこそ毎日ボールを蹴っている内に、“中臀筋”の存在を自覚できるようになり、やがて思い通りに動かせるようになっていることに気づき、清水の発言も決して誇張ではないのではないかと思うようになった。さらには長野五輪で金(500m)と銅(1000m)の2つのメダルを取ったことも影響し、「気になるアスリート」の1人となった。

ゴルフの石川遼の発言を聞いていても感じることだが、スポーツの世界でトップクラスに位置する選手たちは、一般人では思いもよらない発想や考え方をする。中でも清水という選手は独特の考えを持っていて、彼は日本中が新しい年の訪れを寿ぐ正月の間延びした雰囲気を嫌い、おせち料理を口にしないという。晴れやかな祝祭の中に身を置くことで、自分に課したトレーニングなどの規律を破ってしまうことや、何より自分の心が緩むのを怖れるからだ。

驚くべき精神力である。その精神力を既に高校生の頃には備えていたようで、彼にスケートを教えた師であり、指導したコーチでもあった父親が亡くなった時も、トレーニングを欠かすことはなかったという。わずか17歳、高校2年生の少年が、である。

オリンピックというところがどんな場所なのか、我々には分からない。ただそこに至るだけでも筆舌に尽くし難い努力を求められるということは想像がつく。ではさらに、メダルを取る ― それも金メダルを取るために、人はどんな道を上って行くのだろう。

Photo_4

『神の肉体 清水宏保』(吉井妙子著、新潮社)という本がある。長野五輪から次のソルトレイクシティ五輪に至るまでの彼の軌跡を追ったもので、頂点に立つということが如何に過酷であるかをとらえている。またそこには、彼らトップアスリートとは比べようもない怠惰な生活、ゆるんだ日々を送っている者には目や耳を覆いたくなるような激烈な日常が描かれている。

清水らがトレーニングバイクを使って練習する様子を描写した箇所がある。

…2人はローラー(注:トレーニングバイクのこと)を下りた。だが、下半身全体の筋肉が痙攣しているためすぐには下りられない。顔をハンドルにうずめながら足を地につけたと思った途端、地面をのたうち回る。のたうち回りながら嘔吐しようとするが、吐くものがない。
 私は呆然としてそんな清水の姿を見ていた。そして理解した。これが既存の筋肉を破壊するトレーニングなのだ、と。心拍数を生命維持の限界である220まで上げ、酸素の供給を絶つことによって筋肉を壊死させるのだ。同時に脳への酸素の供給も絶たれる。言うなら、人為的に脳死状態を作っているのだ。

こうしたトレーニングを1年中続けて、初めて世界トップクラスに伍して戦うことができるのだ。無論、清水にすればそれは当然のことであり、取り立てて人に話す事柄ではない。事実、清水は長い間、自分の練習を公開したがらなかったという。それもまた、アスリートの矜持であろう。

この本を読んでいくと、そんな驚くべきエピソードが次々と登場する。それは取りも直さず、清水宏保という人間が驚くべき存在であるからにほかならない。

しかしその驚異的肉体を持つ清水もついに競技からの引退を表明する日が来た。36歳の誕生日から6日後の3月5日のことだった。同じく超人的な発言をすることで知られ、今なお大リーグで活躍するイチロー選手より1歳年少、同じ大リーガーの松井秀喜やハンマー投げの金メダリスト室伏広治とは同い年である。瞬発力がものいう短距離種目の選手生命の短さを痛感させられる事実である。

ところで、清水に関しては疑問に思っていたことがある。彼の顔を見れば分かるが歯の咬合が決してよいとは思えない点である。かつてマラソンで活躍し、ボストンを制したこともある采谷義秋の歯を見たアメリカ人医師が歯列矯正をすれば世界記録も狙えるだろうと言ったという話があるが、清水の場合も咬合の矯正をしていたら…、と思うのだが、『神の肉体』でもその話題は取り上げられていない。

最後に、清水の超人ぶりを如実に現すエピソードを一つ紹介する。

スピードスケートでは長い間、身長が高い方が有利とされてきた。実際、清水の最大のライバルで、現在の500m最高記録(34秒03)のホルダーであるジェレミー・ウォザースプーンは身長191cm。清水との身長差は29cmもある。

身長差は歩幅の差に現れる。だが「足の長い選手と一歩の歩幅を同じにしないことにはスピードで負ける」。そのため清水は努力で「股関節を異様なほど柔らか」くすることでこの問題に対応した。しかし清水の努力・工夫はそんなことで終らない。

「それだけじゃ、ないんです。実は、低い姿勢をしている時は胃とか腸などの内臓を肋骨の部分まで押し上げているんです。太腿が太いために滑っているとお腹に当たってしまうので、姿勢はある一定以上低く出来ない。でも、もっと低くしないと空気抵抗は辛くなるし、太腿はパワーの源なのでこれ以上細くしたくない。どうすりゃ良いんだと考えていた時に、胃や腸を移動させてしまえば良いんだと思いついたんです」

思いつくこと自体常識を超えているが、それを実践してしまうところが金メダリストの資質と言えるだろう。

引退会見で流した涙には万感の思いが込められていただろうが、その中には過酷なトレーニングから解放された安堵と再びあの高みへと突き進んで行くことはないのだという淋しさも混ざっていたはずだ。

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