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2010年6月 5日 (土)

板谷波山記念館

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茨城県筑西市の「板谷波山記念館」は、JR水戸線下館駅から徒歩で10分ほどのところにある。駅前の道を真っ直ぐに歩いて行くと信号機のある交差点の角にひょっこりと現れる。

施設全体は「波山記念公園」となっていて、敷地内には波山の生家が移築、復元されている。6畳2間、3畳1間の平屋建ての質素の家である。父親は醤油醸造を生業としていたというが決して裕福ではなかったようだ。

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また、波山12歳のときに父が、17歳のときには母が他界している。それでも東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業したというのだから、篤志家の支援でも受けたのだろうか。いずれにせよ、造形の才能は秀でたものがあったようで、波山記念館には学生時代に造った木彫の「がまがえる」が展示されているが、とても木でできているとは思えないほど、両生類特有のぬめっとした皮膚の触感を思い起こさせる出来栄えである。

実は板谷波山については不勉強で、あまり多くのことを知らないまま、今回茨城まで出かけて行ったのだが、展示してある説明でいろいろなことを教えてもらった。そのひとつが、波山自身は轆轤を挽かなかったという事実である。

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美術学校卒業後、波山は教師として金沢に赴任したのだが、どうやらそこで、後に波山の専任轆轤師になる人物と知り合ったらしい。その人の名を「現田市松」という。この人の手があったればこそ、あの「葆光彩磁珍菓文花瓶」など名品の美しい器形が可能となったのだ。

では波山は何をしたのか。彼の仕事は市松が成形した土台に絵を彫り、色を付け、焼くことだった。波山の作陶の特徴は、器の表面に単に絵を描くのではなく、器土を削って文様を描く、「刻花」とも呼ばれる技法にある。これは東京美術学校で高村光雲らに彫刻を習ったという波山のバックグラウンドが大きく関係している。

ところで「板谷波山記念館」と名乗ってはいるものの、作品の展示数は少ない。もともと現存する波山の作品は合計で1,000点あまりとも言われ、決して多くはなく、そのうちの半分近くを東京の出光美術館が所蔵している。因って記念館には代表的な作品はない。そのかわりと言っては語弊があるかも知れないが、東京北区にあった窯とそこで見つかった1万点以上といわれる「陶片」が収蔵されている。

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波山記念館ではその陶片をきれいに洗浄し、専門家の助けを借りて復元する作業を行っている。左はそのうちのひとつ、「青磁鳳凰耳花生」の陶片を復元したものである。作品としては、大阪和泉市にある久保惣記念館所蔵の国宝「青磁鳳凰耳花生 銘万声」と同じ、いわゆる「砧青磁」である。

説明によると、釉を2度がけして焼成したこの作品は、上の釉と下の釉がうまくなじまず、所々ではがれてしまったようだ。

記念館の職員の話では、陶片を集めて復元することに当初は反対の声もあったようだが、失敗し、破棄された作品をつぶさに調べることで波山の作陶の過程が明らかになるはずだと、現在では期待する声の方が圧倒的に大きいとのことだった。

陶芸家として初めて文化勲章を受けた波山だが、重要無形文化財保持者(人間国宝)になることは辞退した。自分は単なる伝統文化の担い手ではなく、創作を志す芸術家であるという波山の自負がその背景にはあった。

1963年(昭和38年)、91歳で、生涯の大半をすごした東京で没した波山だが、死後遺言によって分骨され故郷下館に埋葬された。

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