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2010年9月29日 (水)

原節子と森光子

Photo実は、このところ朝日新聞に繰り返し掲載される広告があって、それは『原節子 あるがままに生きて』という朝日文庫の1冊で、女優原節子を取り上げたエッセイ集のようだ。

「エッセイ集のようだ」と書いたのは、私はこの本をまだ読んでいないからだ。なのでこのエントリーは書評などではないことをお断りしておく。

かつて原節子なる女優がいたと私が知った時、既に彼女は映画界を引退していた。最後の出演作品が1962年制作で、その翌年監督小津安二郎の葬儀に出席したのを最後に人前に一切姿を現さなくなっていた。

これまでに観た映画は『東京物語』だけであり、女優としての評価はしようにもできないが、高い評価を受け人気もありながら、若くして映画界から引退し、以後公の場に一切姿を見せたことがないというその生き方には芯の強さを感じると共に敬服する。

評価されるというのは嬉しいものであり、まして時代を代表する人気者となれば有頂天にもなろうかというものだが、中に「人にちやほやされること」を好まない人間もいる。原節子は後者に属する人間なのだろう。他人の評価よりも、己に対する己の目を信じるタイプとも言えるだろうか。なので、芯がぶれない。やれること、やるべきことはすべて成し遂げたと判断すれば、さっさと身を引いて後悔することがない。引退から48年間、ただの一度も公の場に姿を見せていない背景にはそんな潔さがあるはずだ。

ところで、同じ1920年生まれの女優がもう一人いる。森光子である。ご存じのように森は現在も舞台に立つ現役である。長年にわたって人前で演技し続けている。代表的作品の『放浪記』は、原が引退する2年前の1961年が初演で、以来49年、公演回数は2000回を超えている。その役者としての心構え、情熱、節制、努力は立派という言葉以外に形容のしようがないが、原節子のように、すっぱりと演じることを止めることで、原節子という女優像を現実という印画紙に、不可侵の神像のように定着させるというのもある種の偉業と言えるだろう。

それは「あの人が生きていたら、今頃どんな作品を創っていただろう」と思わせる夭折した才能に似ていながら、それよりも稀有であるということで、おそらく才能と真の強さを併せ持った人間だけが成せる業に違いない。

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コメント

このエントリーを読んだ日に、日本の女優さんのおくやみ記事を読みました。また日本の「きれいな、凛とした」大人の女性が画面からいなくなりましたね(お母さんというより、こういう印象でした)。森光子さんは生で見たことがないのですが、池内淳子さんは、確か細雪の舞台を観賞したことがありました。すご~く寂しい気持ちになりました。

投稿: pompon | 2010年10月 4日 (月) 01時54分

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