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2010年12月21日 (火)

引用句の翻訳

翻訳者を対象とした会員制サイト“Amelia”の掲示板(非公開)に興味深い投稿があった。それは、本屋でもらった栞に書かれていた英語の引用句(格言)とその日本語訳とでは意味が違うのではないかという内容だった。

その英語原文と日本語訳文は次のようなものだった。

・The weak have one weapon: the errors of those who think they are strong.

・弱いものはひとつの武器をもつ ―すなわち、強いものがもつ自信過剰という欠点のない点だ。(ジョルジュ・ビドー)

投稿者は、この引用句が「弱いものは、自分が強いという勘違いをひとつの武器としている」という意味に取れるのだが、ということでAmeliaの会員に意見を求めてきた。

その後、スレッドには私の分を含め20件以上のレスが付き、この引用句に関してさまざまな解釈(翻訳)が披露された。大別すると、左の節の「The weak」と右の節の「those」が同一か否かで解釈(翻訳)が分かれているようで、投稿者自身の解釈は同一であるという立場に立脚したものである。

因みに私は同一とは考えず、

・弱い者たちにも一つ武器がある。すなわち、自分を強いとみなしている者たちの思い違いだ。

という訳を投稿した。

今あらためて自身の訳やAmelia掲示板でのやり取りを読んで、翻訳者として思ったことを以下にまとめてみる。

■オリジナル・テキストと産業翻訳の観点
翻訳は原文から直接行うのが最もよい。誤訳が発生する可能性を極力排除することができるからで、ごく大雑把に言って、いわゆる「孫訳」での誤訳発生率は原文からの直接訳に比して2倍になる。

この引用句の主は「ジョルジュ・ビドー」というフランスの政治家(Georges-Augustin Bidault、1899-1983)である。Wikipediaによると、第二次大戦中はナチス・ドイツに抵抗するレジスタンス組織のリーダーとして、戦後はド・ゴール政権下で外務大臣として活躍した人物のようだ。

となると、この引用句もオリジナルはフランス語である可能性が高く、また政治的背景を持つ発言である可能性もある。但し、残念なことに、この引用句のオリジナル・テキストも、また出典も確認することができなかった。

時間よりも内容の正確さを重視する翻訳出版の場合であれば、時間と手間(費用)をかけてオリジナル・テキストとその出典を確認する作業は欠かせないだろうが、時間が優先する産業翻訳では、そこまでの猶予はないケースが圧倒的に多い。また、翻訳の依頼主もそこまでの手間や作業は求めないし、費用も負担しないのが一般的だ。

そこで、今回はその産業翻訳におけるアプローチを前提で話を進めよう。

■英語訳からの日本語訳
上述したように、オリジナル・テキストが明らかでない場合にはどうするべきかを考えてみたい。

先にも述べたように、「孫訳」は誤訳が発生しやすくなり、それは避けようがない。そこで翻訳者として極力誤訳を排除するために心がけるべきは、「原文に忠実な訳」ということになる。

引用句というのは前後の文脈なしに、忽然として登場することがある。無論、筆者が論旨を補強するため、自らの主張に即した格言・名言などの独立した文を引用する場合も多々あるが、その場合、引用先の文脈に即した「意訳」は、引用句が本来持つ意味を変質させることになりかねない。

このジョルジュ・ビドーの言葉も例外ではなく、ビドー自身がどんな文脈で用いたかが分からない以上、あれこれ(たとえば、政治家という発話者の属性や時代背景を)考慮して、「The weak」を「フランス・レジスタンス」とするのは、この場合(オリジナルが不明という状況では)、翻訳ではなく想像となる。

産業翻訳でよく言われる「何も足さない、何も引かない翻訳」という原則に立ち返ると、やはり原文に忠実に訳すのが、大半のケースにおいて適切だろう。

・The weak have one weapon: the errors of those who think they are strong.

もう一度、原文を見てみると、「The weak」は、「the+形容詞」で「なべて××なるもの」を意味することから、「弱いもの全般」即ち「弱き者」、「弱い人々」、「弱者」となる。

またコロンの「思考において連続している2つの節を分離し、2番目の節により1番目の節を例証もしくは強調する」(Chicago Manual of Style)という用法から考えると、右の節の「the errors」が左の節の「one weapon」を例証ないし強調していると考えられる。

ただし、ここで注意すべきは「errors」と複数になっている点である。これは「those who think they are strong」(自分たちを強いと思っている者たち)が犯すいずれかの、一つの過ちではなく、そうした人間たちが通常(または日常的に)犯す過ちを指していると考えるのが妥当だろう。

以上の考察から、上述の引用句をあらためて訳してみた。

・弱者には一つ武器がある。即ち、自分を強いと思っている者たちが犯す過ちである。

ここで、「犯す」という原文にない動詞を補った。また「those」は「The weak」とは同一でなく、Ameliaでも問題となった「they」も「The weak」ではないと判断した。

                   ***

参考までに記すと、英語には「引用句辞典」というものがある。『Bartlett’s Familiar Quotations』などがその代表格である。それらの引用句辞典に特徴的なのは、日本の「格言辞典」のように説明や定義の記載がない点である。代わりに、引用句ごとの出典が明記されている。

これは、解釈や意味の説明というのが引用句に関しては、出典における文脈を抜きにしては極めて困難であることを意味しているのだと思う。その姿勢を引用句の翻訳においても踏襲するならば、意訳は無論のこと、補足訳も想像訳も排除して望むべきということになるだろう。

                   ***

以上、「オリジナル・テキストが確認できない」、「産業翻訳の場合であったら」という前提条件で今回の訳は行ったが、これが「出版翻訳の場合であったら」、オリジナル・テキストおよび出典の確認は避けては通れない。

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