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2012年5月26日 (土)

「フジ子現象」についての最後の発言

1年半前の記事『残念なコンサート:フジ子・ヘミング』(2010.12.1)に未だアクセスがあり、コメントが送られてくること、その大半がいわゆる「悪口」でしかないことは前回の記事で取り上げた。
その記事にまたコメントがあった。「演奏者の立場・・・」というハンドル名の方である。長文で、内容も感情論と切り捨ててしまうわけにはいかないものがあり、ここにその全文を載せ、それに対する私の考えを述べてみたいと思う。
なお掲載に当たり、原文にあった不要と思われる改行はすべて1行あけに置き換えた。また文中に多数の全角スペースが挿入されているが、それは投稿者の文体/個性であると判断し、そのままとした。それ以外一切の修正を加えていないことを申し添えておく。

=「演奏者の立場・・・」さんのコメント===
  フジコさんの演奏会で 今度 スタッフで入ることになりました、 ものです。 そして 実際 私も ピアノの 演奏をしている 立場のものです。   こちらは 正直、すごいコメントでした。

 正直な コメントでしょう 。。。それは 自由だと思います。

 ですが、 演奏立場のこちらからすると、 こちら側の準備段階がどれほどの ものかをきっと 見て 知って 理解できない方の意見なのだろう、 ということだけは 容易に判断できました。

 逆に 知らないからこそ 簡単にいえる意見であり、 ある意味 貴重なご意見でありました。私も勉強になりました。 

 正直 残念なのと、 これが 聴衆の現実なのだと いう あきらめの感情と、、、 そして  フジコさんは こういう正直すぎる人の  すべての人の感情をしょって 世界で活躍していて。。 本当に大変だなぁ。と    神さまだよなぁ。と  おもいました。

 フジコさんの 耳に入ったとします。
  やはり 嫌だと思いますよ。 それは 断言できます。

 私は こんなことは 同じ演奏者の立場として、 そうだとしても、  失礼すぎて 苦労を踏みにじっているような 言葉であり、やはりなかなか こういう場で 言える言葉ではありませんね。

そして、 ミスについて・・・

 実際 ミスしたっていいじゃない、 機械じゃないんだから。 と  フジコさんは 本で よく 言っています。

  私には この 真実の 意味がよくわかります。 これは フジコさん 自体が  ご自分の 苦労を重ねて、 演奏者を励ます意見であり、 実際素人にむけての 自分のミスを肯定する 発言では ないと 思います。  ピアノを演奏する、 そういう 専門家にむけての 緊張がどれほどのものかを 熟知している それ ならではの   緩和してあげるための 名言、 なのです。

 私はこの 言葉を よく 自分が 演奏する 直前 見ます。
 そうすると、 とても 楽になるんですね、。

 フジコさん 以外にも たくさんの というか すべての 演奏者がミスを しない演奏を 目指していますが 本番ではそれが なかなか できない、 その 難しさ、 そして その ことに 名言をたくさん 残しており、 私には  一番これをお守りにしている言葉があります。
  ある 一流  ピアニストの言葉。 

 「 さぁ 世の中へ出て ミステイクをしてきたまえ、。

 でも それで いいんだ 

   君自身の ミスでなくては ならない。 

  君の音楽でなにかを 言ってきたまえ。 

   これが、 きみ だ、という なにかをね・・・・」 

  ミス を 気にしだしたら  消しゴムで消せる世界ではないので、 難しいのですが、 緊張してしまうと 毎回本番では 手の状態が化け物のように 変わる、そして  この 技術 芸術 練習を 何時間もしていても、 メンタル面がものをいう世界です。 また、 毎回ピアノの 鍵盤の重さが違う 、 毎回違う 会場にも 音の跳ね返りをも 演奏者は 注意し、 瞬時に 感じて  抑えたり、 いろいろ やるこ とが  本番と言えど、 あります。  

  ミスだけではなく、 すべての曲を 覚える、 若いときはいいですが、 年を経るにしたがって アンプが 不安になる。

 いろいろな 不安を しょって 舞台にたつ わけです。

 演奏者が気にすることは 一番は ミスをしないように ということで 練習準備を相当な時間と 工夫と 独自で見出した 緊張しても なるべく ミスしないように 本番の手の状態を 練習で 想像し、練習します。 でも ミスにとらわれすぎると、 今度は 保守的すぎて 勢いのない、 そして ただの 無難な 演奏になるわけです。

  その どちらを とるか、 なのですが、演奏者は まず、 ミスをしないように 徹底して練習している、 その かける時間も 半端では ありません。 

それを 今後はよく   熟知しておいて ください。 。

 そして  それで なお 発言してみてください。

 無知とは 怖いものであり、 こういう いろんな人の 意見をも 耳に入ってきても 気にしだしたら、 演奏できない 世界に 身をおいている、 という  世界にいます。

  でも あるいみ ミスを 気にしだしたら、 心に響く演奏もできないから、 それを 跳ね返すことば、 それを自分にもあんじに かけて、いる  その ことばが 

 ミスしたって いいじゃない・・・・

 なんだと思いますよ。

 私には 同じ世界にいても やはり、  オリンピックのような 厳しさだと 思います。   
 
  私は 同じ演奏する立場で 芸術ですので いろいろな 意見が あって いいと思いますが 私は 尊敬する 派です。

 フジコさんの 演奏は たしかに 遅めではあります。
解釈として、 間違いといえば 間違いと いう人もいるでしょう。。 でも 音楽家の立場から 話しますと、私たちの間でも話しますが、 間違い、というのは ないそうです。 

 解釈の違い、それを 面白がる人 。  芸術を楽しむとは そういうことなのかな。。
 そして それを嫌だという人。 

そして早いのは 弾けないなどと 言う人に 実は いろいろな 感情が含まれている 気がします。 

 ねたみ、 もしくは 感情で   心で  聴こうと  していない 人です。

 ミス に こだわるようでしたら、 どの 演奏家も ミスはします。

 そして 人間なので そのときの体調によって同じ曲でも 調子が いい、 悪い の 時があります。

 逆にいうと、 こんだけ 長く弾いていると 新鮮さ がなくなり いくら 得意な曲でも なかなか  感動させる のは 難しくなるはずです。

 でも、それなのに  たくさんの 人に  支持されている。。

 これは やはり 私たち 演奏者から すると 神の 域です。

   あなたの ご意見も 貴重ですが こういう こちら 側の意見を よく 熟知しておいてください。

   ちなみに 私は ふじこさんに お会いしたら 演奏者の 立場から 何を 気にしていらっしゃるか 今度 聞いてみたいです。 

===終了===

以下、私の反論・感想を述べます。

***
 ですが、 演奏立場のこちらからすると、 こちら側の準備段階がどれほどの ものかをきっと 見て 知って 理解できない方の意見なのだろう、 ということだけは 容易に判断できました。

 逆に 知らないからこそ 簡単にいえる意見であり、 ある意味 貴重なご意見でありました。私も勉強になりました。 
***

これは「演奏者側の苦労を斟酌しろ」という聴衆への要望或いは強要と判断したのですが、貴方がどういう立場の人か今一つはっきりしないので、果たして理解してもらえるか疑問ですが、上の私の解釈が間違っていないとすればそれは「あまい考え」だと断言できます。

私も一応「プロ」です。引き受けた翻訳はその内容が如何に難しかろうと、或いは「日本語になっていない日本語」であろうと、引き受けた以上は決められた期日までに仕上げて納品しなければなりません。そこに一切の「言い訳」はききません。

たった1行の文を理解し訳すのに半日かかるような仕事でも、またそのための調査に費用が生じたとしても、それを言い訳に、納期の延長や費用の追加請求などはできませんし、しません。それがプロです。

聴衆は決して安くない金額を払って、音楽を聴きに行きます。そこには対価に見合うパフォーマンスを演奏家に求める当然の権利が生じます。またプロは体調が悪かろうが、出がけに家人と喧嘩して不機嫌であろうが、会場の空調が最低であろうが、ステージに立った以上は一切の言い訳はあり得ません。

それはスポーツの場合に端的に現れます。先ごろ行われた大相撲で、横綱白鵬は指の骨を折っていたそうですが、本人はそれを負けていることの言い訳にはしませんでした(彼の師匠は余分な情報を流したものです)。サッカー選手も同様です。ピッチに立つ以上は、たとえ足首をねん挫していようが、鼻骨を折っていようが、それをパフォーマンスの低下の言い訳にはしませんし、(少なくともヨーロッパ一流リーグの)観客はそんな言い訳は聞き入れません。きちんとプレーできないなら出てくるな―それが鉄則です。

貴方の上記の発言は、「私たちはこんだけ苦労してるんだから、そのことも考えてよね」という甘えにしか聞こえません。

***
 正直 残念なのと、 これが 聴衆の現実なのだと いう あきらめの感情と、、、
***

流行りの表現を使うなら、実に「上から目線」ですね。貴方は聴衆を不当に過小評価し、あまつさえバカにしている。「あきらめの感情」とは「なにをあきらめた」のですか。聴衆に自分たちの苦労が理解されないこと? 冗談ではありません。そんなことを知りたいがために聴衆はコンサートに行くのではありません。「良い音楽」を聴きに行くのです。

***
そして、 ミスについて・・・(中略)

 実際 ミスしたっていいじゃない、 機械じゃないんだから。 と  フジコさんは 本で よく 言っています。

  私には この 真実の 意味がよくわかります。 これは フジコさん 自体が  ご自分の 苦労を重ねて、 演奏者を励ます意見であり、 実際素人にむけての 自分のミスを肯定する 発言では ないと 思います。  ピアノを演奏する、 そういう 専門家にむけての 緊張がどれほどのものかを 熟知している それ ならではの   緩和してあげるための 名言、 なのです。
***

これはあくまで貴方の解釈ですね。それで貴方の緊張がほぐれることと、フジコ氏自身の真意とは別物でしょう。NHKの番組の中でも氏は同趣旨の発言をされていたと思いますが、それは貴方が引用した「ある 一流  ピアニストの言葉」とはまったく異なっています。

***
「 さぁ 世の中へ出て ミステイクをしてきたまえ、。
 でも それで いいんだ 
   君自身の ミスでなくては ならない。 
  君の音楽でなにかを 言ってきたまえ。 
   これが、 きみ だ、という なにかをね・・・・」 
***(改行省略)

確かにこういう言われ方をすれば、救われたような気分になり、リラックスして演奏に集中できるということはあるでしょうが、フジ子氏の発言はこれとは全く違う趣旨であると私は解釈しています。

貴方は演奏なさるということですのでお分かりになると思いますが、「音楽の演奏に完璧はありません」。一つの楽曲でも解釈は十人十色であり、また一人の演奏家から見ても、たとえば年齢を重ねるごとに異なった解釈があり得ます。一言でいって、演奏する側からすれば音楽は無限です。

それでも、いや、だからこそ演奏者はその果てしのない音楽という無限の宇宙を少しでも極める努力を惜しんではいけないのです。一流のパフォーマーであればジャンルを問わず、誰もが同様の言葉を口にしています。音楽で言えば、小澤征爾氏は(病気をしてからは分かりませんが)毎日4~5時間「譜面を読む勉強」を欠かさなかったと聞いています。スポーツの分野ではそうした「不断の努力」の話は枚挙にいとまがありません。それは自分が挑む対象が―それは音楽であったり、絵画であったり、スポーツであったり、文章であったりするわけですが―己の非力さに比べ、広大無辺でゴールにたどり着くことなどあり得ないという自覚、謙虚さを持っているからで、そうした不断の努力があったればこそ、人々を感動させるパフォーマンスが可能になると知っているからです。

単純に考えていただきたい―今でさえ感動するフジ子氏の演奏に、今よりもっとミスタッチが少なかったら、それはより良いパフォーマンスといえるのではないですか。その「より良い」ものを追求するのがパフォーマーの使命です。

貴方はフジ子氏の年齢のことも取り上げていますが、私に言わせれば、年齢だから演奏に多少の齟齬が出てもいたし方ないというのは、プロの演奏家にとっては侮辱以外の何物でもないです。

「先生もお歳なんですから、多少のことはしょうがないですよ」と演奏家本人に言えますか。本人はそんなことは言わない? でも、上記のコメントでは取り上げていますよね。つまり、貴方の上記のコメントは「本人にはとても言えない」陰口レベルということになる。

***
それを 今後はよく   熟知しておいて ください。 。
***

いえ、演奏会に行く時、私はそんなことは一切顧慮しません。なぜならそれはスタートラインの向こう側のことで、スタートラインからこちらしか見ない、聞かない聴衆には一切関係のないことだからです。調理人が厨房でどんなに大変な思いをしようが、出来上がった料理がまずければ、料理がまずいということは厳然たる事実であるわけで言い訳はききませんし、客は二度とその店には行かないでしょう。それとも貴方は、調理人は苦労してるのだからと、まずい店に通い続けますか。

***
 無知とは 怖いものであり、 こういう いろんな人の 意見をも 耳に入ってきても 気にしだしたら、 演奏できない 世界に 身をおいている、 という  世界にいます。
***

これも「演奏する側」にいる人の発言としては随分とひどい言い方ですね。聴衆の無知を指弾する―では聴衆とは音楽を聴く以前に、どの程度の勉強をして来いというのですか。料理に例えるなら、フランス料理を食べるのにフランスの文化、風土、地理、歴史を勉強しなければならないのでしょうか。確かにそういう知識があれば、味わいもひとしおかもしれませんが、それを料理を提供する側が要求するのは傲慢であり、ある種の侮辱です。それが分からないとしたら、貴方には永久に聴衆の心が理解できないでしょう。

端的に言いましょう。この1年半の間に数多くのコメントをあの記事にもらいましたが、その送り手の大半は「フジ子・へミングという人間に惚れこんでいる」のです。それを「ファン心理」という一言でいうのは簡単ですが、その「惚れこみ」度合いがフジ子ファンの人たちは非常に強い。なので、フジ子氏のすべてを受け入れてしまう。でも「是々非々」であるのが本当のファンだと私は思います。―率直に言って、フジ子ファンにはフジ子・ヘミングに対する「信仰」に近いものを感じます。

なので如何に理を尽くして論じても、そういう人たちの耳に私の言葉が届くことはないでしょう。またそういう人たちを説得しようとも思いませんし、説得することは不可能であると考えています。

前回の投稿でもう取り上げないと言った「フジ子・へミング現象」ですが、またぞろ取り上げてしまいました。でも本当にこれを最後にします。私の意見に対する反論や罵倒は、これからはご自身のブログなり、適切な掲示板、あるいはSNS、Twitterなどで存分におやりいただきたい。ここではもう取り上げません。

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